Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

才能とは何だろう?

天才とは、点が与えた才能のことを言うわけだが、様々な分野で天才と呼ぶのがふさわしい人たちがいるのは事実であろう。
逆に言えば、その他大勢は天才には該当しない。
さて、天才とはまれに現れる特定分野のスーパースターであるが、その存在は絶対的なものなのだろうか?

正確に言えば、一般の人から比べて特定分野の能力が突出しているからこそ、その人が天才と呼ばれるのだから、残りの人が天才では無いのは当然だ。天才は、絶対的ではなく相対的指標なのである。

だから、才能とは特定分野における比較優位な能力と言っても良いだろう。


さて、多くの人は「自分には何の才能もない」と言うことがあるのは承知している。
どちらかと言えば自ら「才能がある」と口にするのは逆に胡散臭い。
だとすれば、才能というものは基本的に他者が評価するものと言うことである。
自己評価はあまり当てにはならない。
では、他者ななぜ他人の能力を才能として評価するのだろうか?
人のことにかまっている場合でもなさそうなものだし、人の才能を評価したからと言って直接的なメリットはあまりなさそうなものだ。
通常、同年代のものが評価する才能と、上の年代が評価する才能は異なっている感じもある。

私は、同年代のそれは自らが欲する分野での能力を他人が有しているという、羨望が他人の才能を評価する一因ではないかと思う。もちろん、客観的に比較優位を見つけ出すというベースがあってのものではあるのだが、ライバルをわざわざ評価するメリットは本来高くない。
羨望は、同時に反発も生む。あくまで評価者の個人的な判断によるが、それが近ければライバル同士だろうし、あと少しで届かない場合には反発になり、全く届かないとき羨望に至る。

年齢が上の場合、通常は指導的立場にいるものの評価は少し異なる。
世代の違いから、多くの場合ライバル関係が成立しない(成立する場合もある)。
結果として、同世代よりはかなり客観視が可能であろう。
その上で、その才能に自分が関わることによる間接的な満足心。
これが才能を評価する主要なモチベーションになっている気がする。

これらを総合すると、才能というものは人々があこがれる分野ほど評価されやすい。
一方で、多くの人が興味を抱かない分野でも同様の才能があったとしても、なかなかそれは評価を受けないと言うこともあるのだと思う。
才能がないわけではない。評価されないことで顕在化していないのだ。

自己の評価に自信のある人は、それでも自己の能力を喧伝することもあるだろう。
ただ、その行為は才能の信憑性を奪いかねないのだから難しい。
結果的に、人々に注目されない分野では才能は埋もれる。


私は、全ての人間が何らかの才能を有していると大きな夢を振りまけるほどお気楽ではないつもりだが、それでも世の中に評価されることがない才能がおそらく私達が想像するよりもずっと多いとは認識している。
ただ、その才能を発揮する分野に対する序列があるだけだ。
人々がうらやましがらない才能は、才能として評価されない。

でも、本来的に考えれば才能とは他者と比較して突出している力である。
その力が、他者が羨望する分野であることは、それこそ偶然ではないだろうか?

もちろん、才能だけで全てが語れるわけではない。
エジソンが言うように、99%の努力が必要である。
才能はあくまできっかけに過ぎない。
すなわち、才能を言い訳にしてもそれこそ自己満足に過ぎない。

だとすれば、私達が使う「才能」という言葉にどれだけの意味があるのか?
なかなか難しいものだと思う。

「才能がないとは、普段は埋もれている才能を有し、役に立つ機会を得ていないに過ぎない。」