Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

新聞はジャンクフードと化した

新年早々、毎日新聞朝日新聞の飛ばしっぷりがいっそ爽快なほど凄い。もう、新聞の書く便所の落書きのような記事にたいした意味はないと思ってはいるのだが、それでもついつい反応してしまうのは新聞がジャンクフード(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89)化したからではないかと感じている。

毎日新聞 余録:アジアには二つの国名を持つ国が二つある。一つは…(http://mainichi.jp/opinion/news/20130105k0000m070105000c.html
朝日新聞社説:民主主義を考える―「私たち」を政治の主語に(http://www.asahi.com/paper/editorial.html

リンクを張っておいても、少し立てばリンクが消えてしまううのが日本の新聞社のサイトの最も悪いところだとは思うが、引用するほどの内容があるとも思えないのでいつも通りリンク先のみを示した。リンク先を見てもらえばわかるが、前者の記事は完全なる言いがかりだし、後者の記事は民主党政権成立時に言えばそれなりに説得力もあった。そして、この記事の後も毎日手を変え品を変えながらも似たような主張が続いている。不偏不党が聞いてあきれるが、これも一つのありようかと思えばエンターテインメントとしては楽しめなくもない。
そもそも、政治において劇場型とも言われるようなワンフレーズをはやし立てたのは最初にマスコミであるし、そのパターンとしてもっとも簡単な解決を提案しているのは「憲法9条を守れば世界が平和になる」などと言ったフレーズだと私は思う。後者の社説を見る限り大きくは書いていることは至極まともなのだが、それを適用しようとしている方向性がおかしいと思う。

さて、新聞がジャンクフード化してきたと感じるのは最初にも触れたように、もはや馬鹿らしくて記事に対してコメントするの恥ずかしいと常々考えるのだが、それでもある程度の時期がたち気づけば触れずにはいられない中毒性があるように思えてくる。
ジャンクフードと呼ばれるものも、少し多めに食べると「もう当分いらない」と考えるのだが気づけばまた食していると言ったたぐいのものではないか。そこにあるのは、過剰な演出とそれによる中毒化だと私は思う。強い刺激を多く受けた時にはげっぷが出るほど嫌になるものだが、それにも関わらず長く離れると恋しくなってしまうものなのだ。だとすれば、無視することも出来ずにその中毒に自らはまっている私などは、見事に策略にはまっていると言えなくもない。誰の策略か?もちろん新聞のである。
いやいや、新聞社がそれを意識して狙っているとは思いはしないのだが、それでもそれを疑いたくなるような見事な策略のように見えるのだ。

いかにも道化のような存在に落ちているようにも見えるのだが、穿った考え方をすれば世間の批判を一手に引き受けていると言えなくもない。ジャンクフードにしても、PTAの批判に常に晒されているようなテレビのバラエティーであっても、多くの批判を受けながらも生き残っている。
だとすれば、新聞やその他のメディアの凋落が叫ばれているこの時代において、見事に生き延びる道を見つけているのではないかと感じて感嘆さえ覚えるのだ。もちろん、この場合に自らが道化である不利を決して見せてはならない。それを感じ取られれば、一気に役割はしらけて色あせるのだ。真面目にかつ必死に主張するからこそ生きてくる。

かつて芸能界の宗教的コマースについて書いたことがあるが、この手法も一つの生き残る術として実は面白い試みなのではないかと思えてくる。ジャンクフードにはジャンクフードの楽しみ方がある。正統派の料理であった大新聞がジャンクフード化してくるとき、もともとその位置にいた新聞達は何を目指すことになるのだろうか。こうした興味があって、日刊ゲンダイの論調などをちらちらと見ているのもまた面白いものだ。