Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

体罰と暴力

大阪での部活顧問による暴力により引き起こされた自殺の件が大きく話題になっている。これをもって体罰はNGという声も聞くが、私は個人的には体罰肯定派である。では何が問題なのか。それは体罰と暴力の境界線が曖昧なまま放置されていることではないだろうか。
同じ様な暴力的行為を受けても、それを教育の一環と受け取るか理不尽な暴力行為と受け取るかにより評価は大きく変わるのは確かに事実であろう。それ故に、暴力行為を働いた教師を擁護する声があるのも知っている。ただ、教育という側面から見た場合であっても、単なる暴力行為で終わっている指導は少なくない。あくまで教育の一環だとするのであれば、勝利至上主義的な体罰を下すことはその範疇を逸脱していると考えられる。

そもそも体罰を必要と考える根拠は、口で言ってもその重要性を理解できない子供に、身体(痛み)で覚え込ませるという流れである。ただ、殴る・蹴るという行為を単純に暴力と位置づけて良いかと言えば私は少し違うと考えている。念のため書いておくが、何も暴力を肯定するという意味で言っているのではない。例えば言葉による精神的苦痛も言葉の暴力として存在するし、あるいはパワハラ的な嫌がらせなども考えられる。だから、単純に殴る・蹴るという行為のみを切り離してみても問題が解決する訳ではない。
同時にやや懐古趣味的すぎる感じがあるが、こう言った鉄拳制裁を教育の一環と捉えている人もいる。そこにあるのは、その暴力行為の意味を受ける側が理解しているかどうかであろう。逆に、理解していればわざわざ暴力行為に及ぶ必要もないという考え方もあるだろうが、物事の重要性をわからせるために強い刺激を与えるケースを排除しきれるものでは無いと思う。
それでも、今回のケースはニュースなどを見る限りその範囲を逸脱していると思うので、問題は小さくないし、加えて暴力以外のプレッシャー(キャプテンを辞めさせる=2軍)を加えている方が大きくクローズアップされるべきではないか。

私が体罰自体を完全に否定しないのは、それが一罰百戒の効果を発揮するタイミングを見計らって適切に用いられるのであれば、それなりの意味を持つと考えている面がある。もちろん、体罰を受ける側が(一定の)納得ができるということ無視しては語れない。
それ故に、体罰であろうが暴力であろうが仮にその行為が頻繁に行われているとすれば、それはもはや教育としての意味を失っていると思う。体罰は、喩えは悪いが核兵器と同じように「使われるのではないか」と心理的にプレッシャーを与えてこそ効果を発揮する。すなわち、抜かずの宝刀であることが理想なのだ。
そして、体罰あるいは暴力を振るう側はそれを一度使い始めればインフレーションを生じてしまうことを自覚しなければならない。育児ノイローゼなどでも同じだが、一度感情的に怒り始めると収束がつかなくなってしまう。指導において感情は迫力を増すためにも気持ちを伝えるためにも重要な要素ではあるが、指導する側自身がそれに飲まれてしまっては本末転倒である。あくまで感情も手段として用いなければならないものであり、すなわち理性により制御されなければならない。
こうした面が、長きの顧問としてのポジションにより失われていったとすれば、結局のところ指導者側の怠慢だと思うのである。自分が楽をするために感情の奔出を行い、まだ精神的に完全に成熟していない高校生にそれをぶつけているのだから。

一面を見れば、この高校生が精神的に弱かったという意見を持つ人がいるのもわからなくはない。ただ、それを含めての高校での教育であることは間違いない。仮に精神的に弱い面があるとすれば、教師の側がそれに応じて臨機応変に対応を変えなければならない。しかし、今回のケースを見る限りにおいて教師は自分のパターンを踏襲することを是として状況観察や対応を怠ったように感じられる。加えて、体罰における暴力の側面よりは心理面を含めて追い詰めていく内容が報道の間に散見されることの方が実のところ大きな問題では無いかと思う。
高校生だからと言う訳ではないが人は個別さが大きいので、ある年代のキャプテンはその体罰にも耐えたかも知れないが、それを全てであるとは限らない。仮に高いレベルの学生のラインまで到達していないのが悪いという判断を下したとしたら間違いなく教師の判断がおかしいし、さらにそんな判断さえせずに自分の都合で押しつけていたならもっと悪い。少なくとも、生徒と顧問の間には認識の共通理解がなかったことは報道の一部からも見て取れる。

体罰は、する側とされる側の一種の共同理解がなければ暴力と化す。加えてその理解は毎回確認されなければならないものであるのは当然だ。最初の理解を契約のように振りかざす行為は一般社会以上に教育の世界では厳しく戒められなければならない。生徒が正当な文句を言えない雰囲気を作り上げているのがまさにそれに当たるだろう。
こうした指導における相互理解の状況を正確に解き明かすことは容易ではないが、その曖昧さに安住しがちな現在の教育状況を憂わなければならないのも寂しいものである。