Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

マナー講師とツイフェミの類似性

 マナー講師問題は、勝手なマナーを創作してそれをスタンダードにしていく(飯の種にする)人々(喪服に黒タイツはマナー違反? タイツはカジュアルとする葬祭マナーに…お坊さんの回答が話題(まいどなニュース) - Yahoo!ニュース)に対する反発から発生したものである。同様に、Twitter等においてフェミニストを自称する(あるいはそのような見地を持つ)人が広告や宣伝、あるいは有名人その他一般人に対しても、自分の言動が正しいという前提のもとに指摘し、それを自分の(営業・言論等)活動に結びつけようとする状況(日本モンキーセンターが不適切投稿で謝罪 「女性蔑視」と批判相次ぐ - 毎日新聞)が存在する。

 私はどちらの行動も賛成しないし、正直言えば迷惑千万だと思っている。もちろん、マナーにも人権配慮にも越えてはいけない線と言うのはあるだろう。ただ、問題はそのような社会常識により設けられる線は本来かなり曖昧で、比較的大きな許容度を認めている。それらを自分たちの主張に従い規定(侵食)していくのがこの人たちであり、勝ち取った領土に応じて旨味があるともいえる。常識の範疇を変える争いが生じているのである。

 

 問題は、マナーも人権も大きく逸脱してよいものではないので、必要か不必要かの二択になると必要と判断されるものを対象としていることにある。程度の線引きがあいまいだからこそ、こうした人たちの言い分が受け入れられやすい素地があると言えよう。ただ、ボーダーを構成する社会常識は特定の人物や勢力が決めるものではないというのが最も重要な真実である。ノイジーマイノリティが既存の社会ルールを変えようとする時に、こうした問題が湧き出てくる。

 ただし、同じ常識や同じルールが永遠に続くものではないというのも事実。社会変化に応じて徐々に変わっていくだろうし、その方向がひょっとすればマナー講師やツイフェミと呼ばれる人たちの主張に合致していることがあるかもしれない。ただ、それは長い時間を経なければ証明しようのない内容である。現時点で言えることは、彼らの行動は自分の商売の範疇を拡大するために行っているマーケティングに過ぎないということ。確定したマナーでもなく、多くの人が賛同する常識でもないことを、あたかもそのように喧伝することで自分の主張に近い考え方を広め、その結果として自分のビジネスにつなげていくという商売行為であるに過ぎない。

 

 そもそも、マナーと言うものは社会が安定している時に他との差別化を図るために行う儀式行為である。仲間である集団の同一性意識を高めたり、余裕があることを社会に示すための示威行為であったり。もちろん、美しい動作や所作が伝統として受け継がれていくことには意味があるが、新しいそれは様々な状況の変化や淘汰を経て生き延びるものにこそ意味がある。それを無理やりマナーと言って押し付けることのなんと無意味なことか。

 あるいは人権の在り方も時代とともに変化する。私は人権侵害を推奨することなどないが、マイノリティとマジョリティの権利の間にも微妙でかつ心理的な常識ラインと言うものが存在する。これもまた社会意識が決定するものであって、理念により決定されるものではない。

 

 もし理念により決定されるのであれば、私たちは世界中の貧しい人たちと同じような暮らしをすべき(日本の富を彼らにも分け与え、我々は生活水準を落とす)と主張すべきだし、中国が行っている著しい人権侵害に対しては日本での細かなポスター問題の何万倍も大きな声で抗議しなければならない。だが、日本で些細な問題にクレームをつける人たちがそれを行動しているという話を寡聞にして知らない。

 要するに、自分が安全なところで自分の生活水準を下げることなく、都合の良い自己主張を行っているだけなのだ。もちろん、小さくても日本国内で生じた差別的なことを問題視することが無意味とは言わないが、おそらく日本でも彼らが主張する以外にもっと大きな問題が横たわる。マスメディアの人権侵害である。私は、今こそこれ以上に大きな人権侵害問題が日本に存在しないとすら思うのだ。

 

 まあ、世間を見渡すと結局のところ「好き」「嫌い」と自分に「利益になる」か「不利益になるか」しか存在していない。その中で、日本全体として「利益になる」方向性を探っていってほしいと思うのだが、同じ日本国内での「利益の奪い合い」を行っているのがマナー講師問題やツイフェミ問題だけでなく、野党の主張やマスコミの報道にもみられる現象ではないだろうか。

 人間社会に存在する曖昧な概念を、正邪の二択で迫る現象はまさにポリティカルコレクトネスであり、この在り様こそが世論を二分する対立構造を生み出す最大の理由ではないかと思う。問題は、グローバル化が進展するほどにポリティカルコレクトネスが力を持つことになることであろう。反グローバル化は文化面での同一性を高め、丁度良い落としどころを社会に設けるという意味で、現代社会に投げかけられた一つの踏み絵かもしれない。

 アメリカにおいて、TwitterFacebookがグローバリストの集まりであるからこそ内向的な主張は退けられ、社会を阿吽の呼吸から新しい形のルールにて縛り付けることが求められるようになる。幸いにも日本はまだそこまで入っていないが、どちらの方が幸せな社会だろうかとは考えてしまう。