Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

人物ウォッチ

 私は政治や経済の専門家ではないので、正直ここで書いていることは様々な人の意見を参考にしながら考えた単なる勘、予想屋に過ぎない。結果的に間違った予想も数多くして来たし、専門外のことについて好き放題書いている。すなわち、現在絶賛叩かれ中の玉川徹氏(玉川徹 - Wikipedia)と立場や考え方は異なるが、行動様式には違いがないと認識している。強いて言えば向こうは仕事で行っていること、かつ影響力が圧倒的に異なるという決定的な違いは存在するが。

 正直、彼の重箱の隅をつつくような小さな正論は、ボヤキ漫才のように暖かく愛でるべきものなのだ。彼に向かって真面目に腹を立てても、腹を立てた側の方が精神的に損をする。なにせ、ワイドショーとはある意味でプロレスと同じである。如何にして番組をショーアップするかが最大目的で、彼のようなヒールの存在はそこでは非常に高い価値を持つ。その役割を演じている人物に対し、その役割を辞めろと説いても変わるはずもない。

 経験のない悲惨な状態が広がっているからこそ、誰かの責任を追及したくなる気持ちはわからなくもないが、一番の効果はその番組を見ないことにある。度の過ぎた興行には興味を失うのが当たり前のこと。クレームによる降板もあり得ない話ではないだろうが、それ以上に視聴率が落ちれば彼は消えていく。クレームでそれを成そうとする行為は、ある意味において八つ当たりだと私は思う。私も彼の言説を支持はしないが、それでもスケープゴートにされようとしているのだろうと認識する。

 

 まあ、こんなことをいろいろと書きながらも、社会で起きている現象は自分自身では知らないこと分からないことばかりなのは承知している。だからこそ、各種メディアや信頼できると私が感じる人の意見を自分なりに消化して、ここで自己整理のために文章を書いているのが実際のところ。メディアも法人であるとすれば、それを含めて「人」をウォッチし、言葉が信じられるかをできる限り懐疑的に見ているつもりである。とは言え、自分の思想や人物の好みに影響される側面は否定できないので、自分を中立的であると考えてはいない。ただ、こうしたウォッチを通してメディアやSNSを通じて見えてくる人物像と言うのはなかなかに面白い。基本的に人の全てを0か1で切って捨てるkとなど馬鹿げており、ある点は優れているが、違う点では上手くないと感じることはよくある。

 例えば、歯に衣着せぬ言動で有名な橋下徹氏(橋下徹 - Wikipedia)について言えば、彼の思考速度と行動力には感服している。ほぼゼロに近いところから、新たな政治勢力を根付かせてきた(松井大阪市長松井一郎 - Wikipedia)の力も大きいが)ことは、正直なところ凄いと思っている。だが、一方で人を見る目はあまりないという認識も同時にもっている。自分が全てをできてしまうが故に、良い部下を育てられるのが苦手と言う感じだろうか。大阪市長時代などに呼んだ参与等のブレインには、当時から私からすれば信じられない人物もいた。逆に言えば、ブームに乗るのが上手いということもできる。また、勢いのみで押し切るディベート術もメディア向けだとは思うが、多くの人をまとめるトップには向いていないようにも思う。

 

 ところで、世の中には自分に関与する人を敵と味方に分ける人が少なくない。その傾向は、コロナという心理的に負担を感じる状況が目の前にきたからこそ、相当に増しているのではないかと見ている。ちなみに、てkと味方のどちらにもに入らない人は、雑魚か手の届かない人(立場が上と認識)になるのだろう。ラベリングが頻繁にみられるとことは、一方で是々非々の思考を見つけられる人は少ないという感覚でもある。理性で考えれば、是々非々で対応することが必要なのはわかっていても、感情がそれを許さないという感じだろうか。もちろん、職場で絶対的な敵対行動を取るほど馬鹿ではないが、人によってはその箍すら外れている人もいる。

 一度敵のレッテルを貼ってしまうと、その認識は容易には覆らない。私たちは理性的でいようと考えても感情に支配されてしまう弱い存在だ。感情を利用するのは悪くないと考えているが、感情に利用されてしまうのはよろしくない、ただ、往々にして私たちは感情に利用された結果を自己正当化している。

 

 シニカルな考え方だが、私はいろいろな人の行動や考え方を外から眺めて、想像を巡らせるのが好きである。なぜその様な考えに至り、あるいは行動を取るのか。その背景を推測することが非常に面白い。もちろん正解はわからない。その人が持つ背景を十分にわからなければ、想像が間違っていることもある。だが、ある程度以上の情報が集まると概ね大きくは外さないような判断ができていると認識している。

 また、人物ウォッチをすることにより得られる最大のメリットは、客観視をできるようになることだとも思う。一歩引いて相手を見たり考えたりするのが習慣になっていくといた具合である。もちろん、全くの客観的な立場になると組織として意見が通らないため、ある程度感情を利用してそれなりの雰囲気で発言もするが、感情や感覚により構成される徒党には参加したくないという気持ちは強い。

 常に仲間と一緒にいないと寂しいと考える人にはお勧めしない行動形式だ。広く浅くいろいろな人と付き合い、接触していく。もちろん感情的になるときもある。嫌いな人もいる。だが、その雰囲気を出さずに(あるいはわざと示して)行動できるほどには大人であるつもりだ。是々非々と言えるほど厳格にできているとは思わないが、一定のバランス感覚は取れているだろう。

 反面教師ではないが、嫌な人にもそれなりの良さがあることは認めている。それを認める(認められる)ことが、私が取ろうとしているポジションのスタートラインだと考えている。今振り返ると、意図せずにではあるが子供のころから同じような行動を取っていたかもしれない。まったく、人と言うものは本当に面白い。

 

 私がこのような行動を取る最大の理由は、精神的なメリットのためである。大いに喜び大いに悲しむような感情の振幅が大きい人がいて、一方でそれを抑え込むように生きる人もいる。喜びはプラスの感情、悲しみや怒りはマイナスの感情として、人生において同程度それが訪れるとすればプラスマイナスゼロになる。大きな振幅(起伏)に耐えられないと考える人は、振幅自体を抑え込もうと考える。だが、私はプラスは最大限にマイナスは最小限にしたいと思うのだ。

 マイナスの感情(多くの場合はストレス)も、反発心により更なる成功のばねにすることもできるが、若いころなら耐えられても常には厳しい。だから、選択的にマイナスの感情をばねにしたり、客観視により打ち消したりするという方法を取っている。もちろんプラスのそれは最大限感情的に楽しむというものだ。

 それは自分の感情をコントロールすることで可能なると考えている。論理的に描くのはなかなか難しいが、それを自分なりに如何に実現するかが私の人生における目的に一つでもある。完ぺきではないが、ギリギリ及第点程度にはできるようになったかもしれない。そのためのトレーニングが人物ウォッチであったと考えることもできる。まあ、こういう考え方もあると感じてもらえれば嬉しい。