Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

新宗教裁判

 世界中で外出自粛や都市封鎖が行われているが、それと同時に感染クラスターの主要なポジションを担ってきたのが宗教関連(サンピエトロ広場閉鎖 「司祭は感染者に会う勇気を」―バチカン:時事ドットコム)であった。一部の宗教家たちが、行政や政治家の声に耳を傾けずに宗教儀式や説法等を行った(一部の米教会、大規模な日曜礼拝を強行-新型コロナの警告に従わず - Bloomberg)ことで、感染者を増加させている(指示無視して説教続けたインドの導師、スーパースプレッダーに 1万5千人が隔離下 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News)可能性が高い。韓国の大邱で感染爆発を生じさせた新天地(韓国、新型コロナウイルス感染拡大の元凶? 信者24万人の「新天地イエス教団」とは | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)も同じ構図というか、よりたちが悪い。この傾向は、日本ではイメージしにくいが宗教性の強い国において顕著である。

 

 人々は不安が募るほどに、攻撃的になったり何かにすがったりする。既に自宅待機状態によりDV(ドメスティック・バイオレンス)が増加しているという話が問題になっており(【新型コロナウイルスと増えるDV・虐待】全国女性シェルターネットが政府に要望書提出、移住女性も被害に(巣内尚子) - 個人 - Yahoo!ニュース)。高齢者がマスクを買い占めている(「ダメとは思うが朝から並んで買ってきた」老人がマスクを買い占める本当の理由を知って、複雑な気持ちになってしまった)という噂もあるが、これも不安故の行為であると考えられる。

 人により行動が異なるのはなんとなくわかるが、不安を何かにぶつけようとする根源は心の弱さに起因する。そして、その弱さを包み込み和らげていくのが宗教の最も良い点であり、それを利用する悪しき宗教者がいることが社会的な意味での悪い点である。日本人は無宗教(というか神道を中心にした自然宗教観)の人が多いため、わかりにくいが、宗教に子供のころから接していると、それが行動や判断の前提条件になってしまうことがある。そのもっとも極端なものが宗教原理主義であるが、宗教が人生の一部になるとある意味で大きな力を発揮する。

 

 ところが、今回の新型コロナウイルスは宗教の信頼性を大きく揺らがせるのではないかと感じている。神は試練を与えるが信者を救わない。宗教指導者が皆倒れ(イタリア北部で聖職者が相次ぎ死亡、医師の死者数超す 2020年3月24日 | キリスト新聞社ホームページ)、競技を優先して信者たちに感染を広げていく(新型コロナウイルスの死者、世界で3000人超す 韓国の宗教団体トップは土下座 - BBCニュース)。多くの宗教家たちは公衆衛生の大切さを説いていると思うが、イランではアメリカの生物兵器説を広める(イスラム圏で広がるコロナ陰謀論──反米イデオロギーを優先させる宗教指導者 | 飯山 陽 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)ように責任の矛先を他者に向ける。ある意味、信仰の正しさを証明できていないということでもある。だから、皆の意識を別の場所に向けようと努力するのだ。

 今後、新興国では今の欧米以上に感染が拡大していくだろう。公衆衛生や医療体制の貧しさだけでなく、それに対する意識の低さが輪をかけるはずである。WHOを中心に対応するとしても、新興国の範囲が広すぎてとても手が回らない。下手すれば、応援に駆け付けた医療関係者にまで被害が広がっていくのだ。

 このような事態に対し、宗教には果たせる力がある。それは、無秩序な暴動等の発生を抑止する力である。神を信じ宗教を信じれば、日本と同じように多くの国民が理性的で抑制された行動を取る事ができるはず。だが、実際にはそれは非常に難しいだろう。家族・親族が次々と死んでいく中で、信心を継続できる人は多くない。逆に、信じていた気持ちが強いほどに裏切られたと憎むようになることも考えられる。

 

 宗教が信者を救わない。今以上に感染が広がっていき認識が変わり始めた時、一種の宗教裁判(宗教裁判 - Wikipedia)ともいえるような断罪が生じるのではないか。ただし本来の教義に基づく裁判(宗教裁判(しゅうきょうさいばん)とは - コトバンク)ではなく、宗教そのものあるいは聖職者たちが被告になるという新しい形の宗教裁判である。そこに至る前には、当初別の宗教家による扇動もあるだろう。要するに宗教間の対立に基づく信者獲得競争である。すがるために宗教に足を向けたのに、それが意味を持たなかった。実際には自らの選択により信仰することになった訳だが、それを消化できるのであれば元から宗教にどっぷりとは漬からない。

 私たちは基本的に何かを支えにしなければ、辛い時には生きていけないほど精神的には弱い。その最大の支えになるのが、家族であり世界的に見れば宗教である。だが、その両者とも心の支えにはなれても、感染症という災厄を駆除することはできない。家族を捨てることはなくとも、宗教に疑問を抱くほどには思想の自由は許されている。

 人類は過去に何度も大きな伝染病委に痛めつけられてきた。宗教はその試練を生き延びてきたのはそのとおり。だが、今の時代には宗教以外の動向を知ることのできる情報が満ち溢れている。それと共存する形であれば宗教は今後も人々を苦しみから救うだろう。だが、それと敵対するほどに人々の心が離れていくのではないかと思う。日本の様に儀礼のみが残るというケースもあろうが、どうなっていくかは楽しみでもある。