Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

心象風景って何?

 自分語りをするときに比較的よく出てくるワードとして、「心象風景(心象風景 - Wikipedia)」というものがある。漫画やアニメでも精神世界が具現化するなどのシチュエーションで用いられることも多く、音楽でも歌詞に含まれることもあり言葉自身知っている人も少なくないだろう。多くの場合、明確に言葉や文章として説明できない心の中にあるモヤモヤとしたもの、規定しきれない何か、あるいは特別な何かを指す言葉として用いられることが多いようだ。ただ、この言葉が示す「心象風景」の内容は一般的なものであってはならないという制限があるようにも感じている。

 それは、自分の存在がこの世界において特別であることを、リアルで上手く示せない人の最後の砦となっている。自分の心の中だけは誰もが侵せない聖域であるが故に、この心象風景はマジックワードになり得るのだ。だが、人の心の中とはそれほどに特別なものなのだろうか。人の存在は一人ひとり異なっているし、考え方や感受性も違う。だからこそ面白いと思うが、このように余裕をもって受け入れられるには時間と経済的な柔軟さが必要かもしれない。社会的には大部分の人たちは未成熟で、大なり小なり何らかのルサンチマンを抱えているのだ。それも人の心の中に存在している。

 

 人の心の中を本当に知ろうと思えば、カウンセリングだけではなく催眠療法まで利用しなければわからないであろうほどには、私たちは自分の心や感情を隠して暮らす。心の距離が近づけば多少の本性は見せるにしても、誰にも自分の奥底のことはわからないと確信している。それは、自分の心を守るための最後のカギのように。一面で誰かに知ってほしいと願いながら、同時に知られては困ると考えるのだ。

 リアルの世界に自分の存在感を示せる人にとっては、心象風景をわざわざ特別なものとして語る必要はない。人の心の中の模様は様々なではあるが、それを態々自分のアイデンティティと重ねなくても大丈夫だからである。自分の社会的立場が、得ている評価が、自分の作り出す作品が自分の社会における存在感を明確に示してくれる。もちろんその評価を誰が行うかの問題はあるが、自信過剰でなければそれなりには自覚しているものであろう。

 

 こう考えると、この「心象風景」という言葉はやや厨二病的な響きに聞こえてくる。あたかもモラトリアム発現のような、自分の存在を社会に認めさせるための一つの方法論となり得る。もちろん、自分自身の内面を見つめ直し、深く省察すること自体は重要なことだろう。己を知らなければ、社会に対して妥当な形で立ち向かうことができないのだから。かの武田信玄も自らを知ることの重要性を説いている(彼を知り己を知れば百戦殆うからず - 故事ことわざ辞典)。だが、心の中といってもそこには様々な内容が含まれる。自分の能力を客観視することや、自分の得意分野や苦手分野を知ることなどは、わざわざ心象風景など呼ぶ必要のない内面である。

 心象風景とは、無限の可能性を示しながら、現実に対する虚無感から何らかの限界を感じた結果代償行為として生み出す仮想の物語ではないだろうか。これは不安の結果ではあるが、同時に不安定な状態のままで置いておくからこそ意味を持つ。自分自身の心象風景を突き詰めてみたいとは誰もが考えるが、そこからは実のところ何も生み出されない。もし、その行為により何かが生まれるとすればそれはリアルに転化した自分自身の創作能力によるものなのだ。

 

 この私の考えは、あくまで勝手な空想であり、的確ではないだろうことは十分に承知している。心象風景は個々の心の中に存在するものであり、他者のそれを本当の意味で理解することはできないのだから。私は思考実験的に類推したに過ぎない。

 だが、小説や漫画にあるように自分の隠された力が突然発揮されるというシチュエーションは多くの人の心を魅了する。現実と理想のギャップ、あるいは認められたいという社会的欲求の裏返しとも言えるだろう。その世界に沈埋することはお勧めしないが、心の支えにしながら前に進むこと自体は悪い話ではない。繰り返しになるが、誰にも自分自身の心象風景は決して読み取れないのだから。そこにあるのは辛く痛いものかもしれないが、自分自身に優しいサンクチュアリサンクチュアリ - Wikipedia)でもあるのだろう。