Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

格好の良い頑固親父

 年老いてくると頑固になる人がいる。実際、自分自身を考えてもそうではないかと感じることがある。一方で、一般論としてではあるが好々爺として何事にも寛容に過ごすのが理想の様に語られる。縁側でお茶を飲みながら、孫が遊ぶのを見ているという昔ながらのイメージのように。だが現実を見ると、様々な場所で社会問題とされるようなキレる老人たちは一般的に非寛容で自己弁護的で頑なだ。私は、人は老いるほどに子供に返っていくと考えているが、それは未成熟な状況に戻るのではなく、様々な能力を失っていくことによりそうならざるを得ない状態に至ると見る。能力の低下を諦め納得できれば落ち着いた老後を送ることができるが、諦めきれないからこそトラブルを起こす。すなわち一種のルサンチマンと考えることもできる。もちろん主には本人の性格がすべての起因となるが、同時に認識(理想)と実情(現実)の乖離こそが大きいのかもしれない。

 

 かつて、人の体は年相応に衰えていった。もちろん壮健な老人がいなかったとは言わないが、大部分の人がイメージできるステレオタイプな60代、70代は衰えているのが当たり前だった。しかし、医療・衛生・食料状況の改善が高齢者を元気で健康にした。とは言えすべての高齢者がそうなるわけではなく、一定の割合でそうなる人が出るようになったというのが正しい。テレビを見れば、70代、80代で若者と変わらない体系を保持し、スポーツや趣味にチャレンジをする高齢者を当たり前のように見かけるようになった。私は、こうした高齢者の健康状態やチャレンジできる環境の差が広がったことも、キレる老人を生み出す原因の一つではないかと想像している。間違わないように念押しするが、あくまで原因の一つであるにすぎず、主たる理由であるとは思わない。

 高齢者の平均的イメージは向上した。より元気で、よりアクティブに。あるいはお金を十分に持ち、自由を謳歌する。だが、その標準的なイメージに届かない高齢者も同じだけ以上に数多く存在する。その人たちは自分の境遇をどのように感じるであろうか。不幸?自業自得?不運?。いずれにしろ、そこにルサンチマンが生まれやすい。

 

 私は若かった時代から、年老いたときには頑固親父になりたかった。もちろん、あたりかまわず怒鳴り散らすような迷惑親父ではない。自分の生き様を背景にして、自信をもって言える頑固さを持ちたかったのだ。それはキレる老人とは全く違う。叱ると怒るの違いと同様に、根拠がありその上で周囲の人にとっても嫌だが納得できる存在になること。世の中は移ろいやすく、人の心持も万華鏡のように変化する。そんな中でも忘れてはならない大切なことはあるはずで、それを経験から態度として示せることこそが頑固さではないかと思うのだ。だが、問題は周囲が納得できる頑固さとは何なのだろうかという点。正論だからと言って人は諫言を受け入れない。最低でも何らかの尊敬をもって迎えられる状況が必要である。企業や立場とは別の、個人としての尊敬を持たれることがベースとして必要なのだ。

 若いころから頑固おやじになりたかったというのも変な話ではあるが、個人としての能力向上の必要性は常に感じてきた。現代風に「自己投資」と言うほど洗練された感じのものではない。ただ、組織から飛び出したとしても通用するように自分の価値を高めるという認識は持ち続けてきた。結果的に、その考えは自分にとって正しい選択であったと思う。

 

 また、私が抱く頑固のイメージには一定の寡黙さが必要とされる。正直、自分としてはこの部分が一番難しいのだが、時折大切なことを言うからこそ、この頑固な一言に価値が生まれる。頻繁に出てくるような価値が低下してしまう。そもそも重みのある一言を発せられるのは何より格好がいいではないか。そう、私は格好の良い頑固親父になりたいのだ。

 今の時代、「優しさ」が何よりも優先され、「厳しさ」が日の目を見ないようになりつつある。昔ながらのスパルタ式など、お門違いとすら言われかねない。だが、優しさが当たり前になればなるほど、厳しい言葉を使いづらくなっていくのも感じている。人に厳しい言葉に対する耐性がなくなっていき、容易に心が折れてしまう。新入社員の定着率が低下していること(3年以内の若者の離職率は約3割!なぜ、早期離職は減らないのか? | 人事部から企業成長を応援するメディアHR NOTE)は既に知られているが、それは人生における代替案を私たちが複数持ち得ていることもあるだろう。その選択肢の一つに親に対するパラサイトがあるにしても。

 一方で、ブラック企業という名称もすっかり定着した。昔からある存在だが、現代においては非常に気楽に使われている感じもする。そこに骨をうずめなければならない時代ならいざ知らず、多くの選択肢を持てる現代社会であれば回避も不可能ではない。しがらみや、奇妙な常識を心から追い出すことができるならば。

 

 優しい大人や上司が増え、厳しいことをいう人が少ない社会。だからこそ、パワハラという言葉が一般的になっていく。それが大多数ではなく、少ない事例だからこそ取り上げる価値が生まれる。勘違いしてもらっては困るが、パワハラを推奨しているわけではない。だが、こうした状況が社会的に否定される中で、厳しいが意味を持つ言葉も同時に記されているのではないかと感じている。

 格好の良い頑固親父。これはそんな時代性の中で、批判されても自分が為すべきことを行う存在になりたいと願う、自分なりのささやかな希望なのだ。