Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

情報の広がりがもたらす引けない社会

 米中や日韓をはじめ、EUとイギリスの関係等、お互いに引くことができない状況が作り出されている。その背景には様々な要因が複雑に絡み合っており、一見すると何が主因であるかがなかなかに分かりにくい。だが、私は情報量と人間の判断能力の関係がそこには潜んでいるのではないかと想像している。

 例えば、メディア上では韓国をたたきすぎるのは良くないという声が各所から出ている(【悪化する日韓関係】嫌韓を煽るメディアよ、頭を冷やせ…江川紹子の提言 | ビジネスジャーナル韓国叩きワイドショーの自国棚上げが酷い!「韓国メディアは圧力で政権批判できない」安倍政権の不正に沈黙してどの口が|LITERA/リテラ)。私からすれば、自爆的な行為にふける韓国を楽しんでいるにすぎず、韓国の反日的行為に比べるとかわいいものではあるように見える。政治のみならず言論界でもこうした対立は広がりつつあり、妥協点を探るという交渉が機能しなくなっている感がある。

 

 かつて世界は数度の大きな戦争を行い壊滅的な打撃を受けた。だが、それと同数以上に様々な交渉締結を行い、幾多の妥協を行ってきた。国家同士の交渉は、スパイや外交官同士の腹の探り合いも含めて、相手の出方を常に想像しながら譲れない部分と譲る部分を探す行為である。意見の対立する者同士の争いは、基本的に両者にデメリットが発生する。だからこそ、対立の激化により被るデメリットと、妥協により受ける損失の比較を行い、より有利な法を選択する。それは、当然のこととして行われてきた。

 もちろん、民族意識の高まりや世論の攻撃的な声を背景に、不利ではあっても対立を選択するケースも間違いなく存在する。メンツを前面に押し出し無理を主張し、それが高じた結果は多くの場合戦争へと発展することとなった。現代社会は、必ずしも武力的な戦争を是とする状況にはないが、最後の抑止力として武力は保持されたままだ。武力の行使を私は良しとしないが、その存在については現実における必要悪として許容している。というのも、仮に日本が完全な武装解除をしたとしても、周辺諸国がそれに続くとは考えられないからである。一から新たに世界秩序を作るのであれば、武力のない世界を構築すればよい。だが、既に一定の武力を保有している社会において、世界中を従わせる強大権力がない限りそれを実現するのは容易なことではない。国連にはその力はなく、パックスアメリカーナの終焉が見え始めたことが中国の台頭を許した。そもそも考えてほしいが、日本が自衛隊を解体すれば中国や北朝鮮が自らの軍隊を無くすであろうか。そんなはずはないのだから。

 例えば韓国の軍事費は日本とほぼ同じレベルとされ、今後もどんどんと増強される計画(日本が防衛費ランキングで韓国に抜かれる日 | 文春オンライン)である。一方で、「北朝鮮はもはや敵ではない」と謳いながら、他方で海軍力や空軍力の強化を図る。間違いなく想定されている敵は軍事力整備の現実を見る限り日本(仮想敵は日本 韓国軍が狂わせる日米韓の歯車)である。

 

 それでも、局地的な紛争はあれど大国同士の大きな戦争は久しく発生していない。ベトナム戦争朝鮮戦争が世界展開していないとはいえ、大国同士が本格的に争った最後だろう。アメリカとソ連の冷戦は大きな緊張を生み出したし武器開発を促進し、経済的には争いがあったが、結果としては武力で戦うことなく終結した。現在のアメリカと中国は、経済的な結びつきが大きいためかつての冷戦とは構図が異なるが、経済戦争という意味においてはさして変わらない。

 米中が引けない最大の理由は、それが価値観そのものの争いであるからだが、それと同様にお互いを知るための情報が多すぎる故に引き起こされていることではないかと、最近考えるようになった。情報技術の発達は、それこそ山のような相手方の情報を入手できることを意味している。そこには相手に流す偽情報も含まれるだろうし、国民の声の様々なものまである。そして余りある数多くの有効な情報。

 通常は、如何に正確な情報を数多く入手し、相手の妥協できるポイントを早期に見極め、それをもとに交渉し妥結するというのが戦略であると思う。だが一方で、情報を多く入手できるほどに、その取捨選択の精度が落ちているのではないかと思うのだ。あるいは、判断者が意図的に自らに有利な情報を選択する傾向が出やすいのかもしれない。

 

 多すぎる情報は、それに応じて選択肢を増大させる。選択肢の量が増えても、それぞれのメリットデメリットを的確に比較できれば問題ないが、実際に人間の処理能力では容易ではない。そこに自分の好みや、指向が反映されやすくなるのではないかとみている。多くの場合、バランスよく単純化されているからこそ人間は適切な判断を下せる。問題が複雑になるほどに、個人として単純化を指向し、自分にとって都合の良い(耳心地の良い)単純化に飛びつく。

 これは何も国家同士の問題だけに限らない。そうして組み上げられた都合の良い論理を【自分で】選択した結果、その選択した事実が自分の行動範囲を限定し、他の策に移ることが許されなくなる。もちろん、政治の場合には世論がその変節を糾弾するケースも多い。

 

 自分で決めることは重要である。だが、問題が複雑化し、多くの問題を並列処理しなければならない場合、バランスの取れたチームを構成し、個々の最適化ではなく全体の最適化を図る体制が必要である。一般に合成の誤謬合成の誤謬 - Wikipedia)と呼ばれる言葉が端的にそれを説明しているが、すべての局所的最適解は全体の最適解には至らない。そして、能力を示そうとして個別の最適解を選択した結果、自らが袋小路に陥ってしまう。情報の氾濫により問題数がどんどんと増加し、いずれもそれなりの意義はあるものの、絶対的な価値の低い問題処理に忙殺される。そして、判断者はわかりやすい結果を求めることになる。いったん判断を誤ってしまうと、メディアという変説を許さない番人が待ち構えている。

 

 実際には、この問題ですべてを説明できるわけではない。だが、物事を適切に単純化できない状況が、社会的な葛藤を広げている一つの要因ではないかと感じている。皆さんはどう考えられるだろうか。