Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

安田純平氏の自己責任論

 ほぼ10か月ぶりになってしまうが、久しぶりに書いてみたい。日々忙しく、ここに書き込む余裕がなかったことが主な理由だが、それと共に書いてみたいと思える内容にあまり出会わなかったこともあった。

 さて、数日前シリアで長期拘束されていた安田純平氏が開放され、日本に戻ってきた。まずは、無事日本に戻ってこれたことを喜びたい。
 ところで、現在ネットやメディアでは彼の行動に対する自己責任論が騒がしい。私も正直を言えば彼の行動は現時点で結論は出せないが、どちらかと言えば否定的に見ている。ただ、自己責任という言葉が先走っている状況には違和感も感じている。そのあたりを自分なりに納得する上で、少し考え方を整理してみたい。

 まずは状況を整理しよう。ネット上で彼を批判する人たちの理由は概ねこんなところであろう。

・かつて4度も拘束された経験を持つ
・日本政府から何度も渡航に対する抑止を受けたにも関わらず、それを振り切って行った
・日本政府には助けられたくないと言った、反政府的なスタンスを表明している
・自己責任という言葉を自分自身使っている

 一方で、彼を擁護する声はマスコミなどに多い。

・ジャーナリズムというものは、政府に行動を制限されるものではない
・現地に潜り込む人がいなければ、情報が世界に届かない
・国が救出するのは当然であり、それで批判を受けるのはおかしい

 その他、英雄とたたえるべきとか、真偽不明の自作自演説なども出ているが、ここで取り上げるつもりはない。そのうち徐々に状況が見えてくるはずだ。
 まず最初に、双方の言い分はそれぞれ納得できる面もある。ただ、この両者の論点がすれ違っていることに多くの人が気付く。そして、批判者が自己責任という言葉を積極的に用いている訳ではないとも感じる。多くの批判は、彼の稚拙で無謀なチャレンジに対して叱っているであろうと思うのだ。

 もちろん、困難なことに挑むのがジャーナリストだという反応が返ってくることは当然予想できる。だが、ジャーナリストに私達が期待しているのは失敗ではなく成功である。今はネット上で容易に情報アクセスできる時代になった。悲惨な状況は現地にいる人たちからも常に発信され続けている。だからこそ、そこにすら上がってくることのない困難で貴重な情報を得てくることに期待している。
 だが、それは生半可なことでは手に入れられない。自分の命を守りながらの難しい挑戦である。さて、4度も拘束された人にその能力があると考えることはできるであろうか。私はそうは思わない。

 それでも国は彼を助けるための努力をしなければならない。その通りである。テロリストに資金を与えることなく、出来る限りの交渉をする義務がある。だが、そのために支払われた労力に対して、ジャーナリストは何の責任も負わなくて良いのであろうか。
 彼らのチャレンジは確かに尊いかもしれないが、それが成功した時に得られるのは彼らの名声と相応の報酬。今回のように失敗した(拘束された)時に彼らが受けるペナルティは何なのか。私は登山時の遭難と同じように救出にかかった費用の弁済ではないかと思う。もちろんすべての費用というつもりはないが、何らかの責任を負うべきであろう(ちなみに、日本では海難事故はそれに該当されないと言われているようだ)。
 これも未確認情報なので確かではないが、かつての救出時の日本への移送費用等を彼が支払っていないという情報もある。未確認なので、ソース等を知っている人があれば教えてほしい。

 今回、カタール政府が身代金を払ったという未確認情報がある。真偽はまだ不明だし、否定するコメントも出ている様ではあるが、これにより日本政府はカタール政府に負い目を持った可能性がある。さて、その負い目に相当する情報を彼は得ているのであろうか。そんなもの、現地に入らなければ分からないと言う人もいよう。確かに一面ではその通りであろうが、プロであればその程度の情報も事前に手に入れないものなのだろうか。私はそのための下準備は十分になされる必要があるように感じている。
 少なくとも彼のこれまでの言動からはそのような雰囲気が感じ取れない。もちろんこれは憶測と印象論に過ぎず、実際には綿密な計画の下で進められた渡航かも知れないのだが。少なくとも5度目の拘束を受けた事実はそれを否定的に傍証していると私は思う。

 要するに世の中が感じている違和感は、彼のプロとは思えない稚拙さについてではなかろうか。勇気と蛮勇は異なる。浅はかで稚拙な人の自己の利益のための行動を、それでも最初は優しい目で見ることもあるかもしれないが、それが繰り返されれば、しかも周囲の努力や協力に対する感謝の気持ちも表明されなければ、いつまでも許容できなくなるものわからなくはないと思うのだ。

 それを肯定的に評価する大手メディアの人たちがいる。だが、大手メディアの彼らは自らの社員を決してそんなところには投入しない。そして、蛮勇かもしれない戦場ジャーナリストからの情報を、あたかも自分たちが得たように報道するのである。その賞賛は一体誰のためにあるのか。結果的に国民から自分たちに跳ね返るであろう事象を、自分たちジャーナリスム界隈の常識を持って塗りつぶそうとしているようにしか見えない。それは、今まで以上にジャーナリズムに対する不信感を高める方向に出るようにも思うのだが、悪手ではないだろうか。
 あるいはテロリストと話し合えと言う人もいる。論評にも値すると思えないが、不可能な理想論を人に押し付ける行為だと私は感じている。その程度の事を誰も考えずに、そして試そうとしてないと思うのだろうか。あるいはビジネスとして行っている誘拐に話し合いが通じると思っているのであろうか。テロやゲリラは目的の位置を全く別にする非対称戦なのだが。

 私はジャーナリストの果敢なチャレンジそのものを否定するつもりもないし、むしろ誰にもできない行動力を高く評価したいと思う。ただし、それはプロに対してである。周到な準備をして、必要なポイントを見定めて、その上で最後には果敢なチャレンジをする人。そんな人なら応援したいし、仮に拘束されるような悲惨なことがあったとしても否定的に見ることはないだろう。

 今回の議論は、単体の件と相対的な問題のすれ違いが生じている。批判する人たちは単体の個人の行動や資質を批判し、擁護する人は総体論を理由に個人を擁護している。現状知り得た情報からは個人的資質に大いなる疑問を抱いている状況だが、できれば個人的な資質をもっとじっくりと見定めたい。その一端は今後行われるであろう彼の言葉から窺い知れるだろう。