Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

スキルと人間力

 例えば大学教員あるいは上司と呼ばれるポジションにいる人に、最も求められる能力は一体何なのだろうかと考えることが近頃増えた。学生や若手に何かをつかみ取らせる役割を担う立場の人のことである。既にここでも少し触れてはきたが、最も求められる内容は実は当該専門や業務に関する直接的な技術やノウハウではなく、あらゆる問題に対する取り組み方や理解・分析・対処の構造を教えることではないかと考えている。専門分野や実際の業務を利用するのは、あくまでそれを例示するための形式的な舞台あるいは手段にすぎないのだと思うのだ。

 と言うのも、この変化の激しい時代において最前線の実務から離れた大学教員や上司は、必ずしも継続的に最先端の専門家ではいられるとは限らない。もちろん、大学などでは最先端の研究と言う側面はあろうが、それも限られた特定の分野に絞られる。全ての学生が教員と全く同じ道・専門に進むわけではない。同じように部下もある分野に特化した専門家にしたい訳ではないだろう。
 知識の伝達について考えれば、幅広く教科書的な通りのそれや方法論は容易に伝えられるだろう。だが、それが何より重要だと思う人はいまい。基礎レベルの普遍的な内容であるほどに、一定の経験をしていればだれでも教えるという基礎部分は担えるものである。確かに向き不向きはあるだろうが、ケースによっては実務経験数年の若手であっても可能と言えば可能だと思う。もちろん、そうした多くの人たちもいきなり最高の教育力を発揮できるとは限らないが、適切なマネジメントさえあれば教育のための能力を向上させていくことは十分可能である。

 だとすれば、専門家あるいは先達としての教育者や専門家としてその地位を築き上げる部分はどこにあるのだろうか。私の考える曖昧な定義ではあるが、教育者や上司は生き方を体現する存在でありたいと思う。生きざまを見ろと言うほど曖昧で強引なことを言うつもりではなく、上述の通り伝える側の経験から来るモノの見方・考え方などを業務や専門教育を事例として解説・伝達していくこと。汎用性あるモノの見方や考え方、それこそが最も重要ではないかと考えている。

 但し、現実には企業の上司や大学教員はこうした内容を教えるスキルを身に付けたスペシャリストではない。だから、正しい方法論に依ることなく自らの過去の経験を伝達することで代替しようとしている事例が多い。時に、個人として有能な上司や教員の方がその傾向が高いかもしれない、アインシュタインは類稀なる研究者ではあったが、よき教育者であった訳ではないとされている。そこに横たわる齟齬は、知恵の伝達ではなく知識の伝達に主眼が置かれるからではないだろうか。本来的には、伝えるべきは知識ではなく知恵であるべきなのに。
 むろん、仮に伝えようとしても学生や若手社員が真の意味で知恵に気づくのは容易ではないかもしれない。知恵は知識の基盤無くして理解が難しく、それを深める上では経験は必須事項となる。表面的には知恵の文言を記憶できても、血肉とするには相当の時間がかかる。教え伝える側として、困難と苦痛を伴うこととなる。

 だが、知識や方法論としての形式的なノウハウはマニュアルや教科書により伝達可能であるが、真に重要な知恵はそれのみではできるものではない。知識やノウハウの伝達はスキルとして存在する。最たるものは予備校教師ではないかと思うが、その他にも様々ところで知識の伝達は行われている。
 だが、知恵を身に付けるためには知識やノウハウを疑い、考えるという方法論がそこに組み合わされる。知恵のみでは何の役にも立たないかもしれないが、知識やノウハウと知恵を組み合わせた時に新たなブレイクスルーが生まれ得る。そして、その事に気付かせるのは上司・先輩として、教育者としての人間力https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8A%9B)ではないかと思う。実は人間力という言葉は定義としてはかなり曖昧なものである。だから、私はここで人間的魅力と定義づけておこう。魅力にも様々なものがあるが、そのパターンを特定分析できるほどに私は専門家ではないので、ここではアバウトな形で魅力と言うことにしておく。

 そして、人間力とも形容できる魅力は『上手く教えよう』という積極的な意志よりは、自分が多くの諸先輩方から受けてきた返せない恩義を、未来ある人たちに代わりに伝達するという感謝の気持ちが必要なのではないかと個人的には考えている。
 もちろん人によっては、誰の力も借りずに自分で今の立場を築き上げたという人もいるだろう。それは否定しない。あくまで私の実体験に基づく心境が、若い人たちに重要な事を伝える時に役立つのではないかと思っていることである。私は若い時から何度も無茶をして多くの先輩方からフォローを受けてきたし、自らの愚かさにより大失敗した時にも多くの人たちのサポートを受けた。
 その恩義は決して忘れることはないし、忘れて良いものだとは思っていない。しかし、諸先輩方にその恩義を返すチャンスは易々と廻ってこない。そもそも恩義を返すべき対象の数が莫大な量に及ぶ。自分なりの親孝行が精一杯と言うのもある。だからこそ、自分勝手な考えだとは思うがそれを若い人たちに代わりに返そうと考えている。だから、教えるというよりはお礼として私ができることを努力する。そんな心境である。

 もちろん、このように私が考えているからと言って、若い人たちに上手く伝わっているかどうかなどはわかりやしない。そのとおり、自己満足と言っても良いだろう。ただ、教える・指導するという必ずしも上からの視点ではない伝え方はないのだろうかと考えている。
 そして辿り着いたのが、知識ではなく少しでも知恵の種となる様な考え方を伝えることである。表面的に凄いこと(例えば最先端の技術や知識)を教えるのは、ある意味簡単なことであると思う。それはワクワクするような刺激を持っているものであり、若者たちはその刺激に大いに引き寄せられる。そして短期間の満足感に浸ることができるかもしれない。
 だが、感謝をもって伝えようと考えるとそれでは不十分な気がしてくるのだから不思議なものだ。一つではない多彩な可能性を感じ取ってほしい、物事を多面的に見て悩む機会を得てほしい、そして問題を調べて自分なりの分析をして解決策を提案する苦しさを糧としてほしい。その上で、可能な限り自分の高みを目指してほしい。そこには、どんどんと欲張りになってしまい苦笑する自分がいる。

 まだ、教えた若者からその結果を聞いたわけではない。だが、知識よりも重要なものを教える。そしてそれを理解するために知識に向き合い修得してもらう。それを私自身から感じ取れる、そんな存在でありたいと願っている。