Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ばらまき

自民党公明党が経済活性化と防災対策を兼ねて大規模な公共事業の復活を打ち出しているが、マスコミの論調は利益誘導型のばらまきと見なしているものが多いようである。確かに過去において無駄だとされる公共事業が少なからず存在したのは事実であろうが、それが「ばらまき」かと聞かれたらちょっと悩んでしまう。そもそも「ばらまき」とは何なのだろう?

民主党政権になり「コンクリートから人へ」のスローガンの下で元々減っていた公共事業の更なる圧縮と、それに代わる子供手当に代表されるような給付型の補助金が大幅に増えた。政府が支出するお金が公共事業として出ていたものが、個人や家庭に分配されているという意味では、支出の性質は違いこそすれお金が市中に出回るという意味では同じように見える。
しかし、そのお金が個人に入るのと企業に渡るのでは実のところ少々異なる。最近の企業は自己防衛のために内部留保を増やしがちではあるものの、それでも企業が得た利益は労働者に配分され、あるいは下請け関連企業にまわり、そしてあるいは設備投資に向かう。
どちらにしても最終的には個人の元にお金は向かうが、その間に多くの経路を通じてお金が流れる事になる。経済とはお金が血液のように社会を巡ることであり、好景気はそれは社会の隅々まで行き届いている状態であって、不景気はそれが行き届きにくくなっている(部分的に枯渇する場合や全体的に減ってしまう場合がある)状況である。
お金を市中に流した場合、そのお金が直接個人に渡される場合やあるいは税金などの支払いが抑えられることにより実質的に個人の手元にお金が残るのも、政府が配ったお金あるいは個人の手元にあるお金と考えれば何も変わらない。ただ、血液の流れとすればピンポイントに一部の個人にはお金が届くものの、輸血により必要な場所にそれを与えているだけで全体の血流が良くなった訳ではない。むしろショートカットされることにより、社会全体へのお金の流通が阻害される。

金融政策として日銀などがお金を市中に多くばらまくことは、社会に広くお金を流通させる基礎とはなるのだが、金融政策ではお金の量を増やすことはできてもどこに流すかを選択する余地は少ない。そもそも金融機関に与えるお金を増やすだけであり、金融機関がリスクを取って社会に広くお金を貸し出せば景気回復に役立たない訳ではないが、企業などがいつ倒産するかわからないこの時代にそれを継続的に続けられるとはとても思わない。むしろ金融商品にそのお金が回ってリーマンショックを引き起こしたのは、お金の流通量を増やしても偏った場所にしか流れなければ国民全体が好景気を感じる訳ではないのだ。
結局、ベースとして流れるお金を増やすことは重要ではあるが、同時に重要なのはそれを以下にして社会全体を上手く流通するように流し込むかである。同じお金を流すとすれば金融機関に戻るまでの間になるべくたくさんの経路を通るように狙いを定める。
公共事業は、この面において成績が優秀であるが故に景気対策として採用されるのである。このことを土建業者にお金を流すための方法だとメディアはバッシングを続けるが、それは効果が高いからであって同じ様な効果が得られる業界があればおそらくそちらも選択されるであろう。
そして、政治家は特定の業界に流すことを詰問されることを畏れて、「平等に」個人へのばらまきに走る。それは、社会にもっともお金が広がりにくいばらまきなのだ。

公共事業を巡る問題点がない訳ではない。談合に、無駄な建設、癒着など、永らく続いた制度においてはそれにぶら下がるものは間違いなく存在する。ただし、それはどんな制度でも続けば生じる現象でもある。だから、それ故に公共事業が駄目なのではなく、その問題のある部分を是正していく方法を考えるのが最も重要なのだ。
悪い部分があるから切り捨てると言うことを続けても何も成長しない。ばらまきは、お金を社会に配分する以上どんな方法を使ってもばらまきに相違はない。だとすると、もっとも社会に貢献できるばらまきを目指すことは何より重要なことである。
ちなみに、成長分野にお金を投入するという話が何処でも出てくるが、多くの場合には補助金により成長して成功する分野など無い。研究分野ならいざ知れず、業種として政府がそれに本腰を入れてお金を投入するほどに新分野の勢いは削がれていくものである。むしろ、民間の投資が行いやすいように誘導することが重要で、単純にお金をその分野にばらまくことは弊害となるのではないだろうか。