Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

学者の世間知らず

 学術会議問題について既に何度かに分けて私の考えは表明しているので繰り返すつもりはないが、ニュースなどを見ても大学教員と一般社会の持つ常識の違いについては多くの人が疑念を感じているのではないだろうか。もちろん大学教員にもいろいろな経歴の人がおり、民間での経験を重ねて社会常識をよく理解した人もいれば、大学に最初からずっとと言う巡視培養の人もいる。もっとも、民間から来たから必ずしも社会常識に長けているとは限らず、世間の情報を知り尽くしたマスコミ出身の教員も人文系には少なくないが、彼らの常識が社会の常識かと聞かれれば容易に首肯し難いケースもよく見かける。むしろ政治的な主義主張に凝り固まっているのでは、と思えるケースすらあるのだから。

 基本的に大学教員である研究者は、新しいもの(理論、現象、状況、物質、機構、その他)を見つけ、それを活用できる形にすることを生業とする。教育は、こうした新規性を見出すための知識や方法、その他の過程を学生に教えていくものである。それはすなわちオンリーワンになることが求められており、それ故に協調性は必ずしも必須ではない。新しいものを見つけるからこそ社会とは異なるものを見いだし、社会と異なる行動を取る事で至る道筋もある。要するに常識がない方が良いこともあるだろう。このあたりは、結果が全てであるため割りきったことを書くのは難しい。

 とは言え、私が知る多くのすぐれた大学教員たちは社会常識をわきまえ人格的にも優れた人が多い。それは公的な立場からの意見を求められることが多いからでもあると思うが、それと同時に偏見のない目で見ることを常としているからではないかと考える。逆に言えば、社会(例えば自治体等)での専門家として資質を認められないような人も少なからず存在し、益々社会的な常識から疎遠になりやすい。もちろん、だからと言ってその人が優れた研究成果を上げられないとは言わないが。常識者が新しい発見をするわけではないのは、先ほども触れたとおりである。

 

 社会との接点を除けば大学教員は常識を知らない方であるという意見はある程度正しい。ただ、同じようなことは大企業病の大手企業社員にも、公務員にも言えることなので、大学教員だからと言って特別と言うほどかけ離れているわけではない。バランスを持っている人はどの業界でもいて、バランスを欠いている人も一定数いるものである。しいて言えば、大学では医薬理工系の教員は比較的学術会議問題などに声高の主張しないケースが多いだろうし、人文社会系の教員の方が興味を持ち政府に反対している人が多いのではないか。まあこれは私の個人的な憶測であり、きちんと調べたものではないのだが。

 と言うのも、私自身も研究に携わるものとしてそうだが、理系研究者はそんなことはどうでも良いと思っている人の方が多い(全てとは言わない)ように思うのだ。自分の研究成果は研究結果として導き出されるものであり、誰かから勝ち取り獲得するものではない。すなわち、自分との闘いの側面が高い。これも私の偏見ではあるが、文系では論争をして自分の地位を勝ち取る側面があるように感じている。勝ち取るというのは語弊があるかもしれないが、どちらがメインストリームに乗るのかという話はよく聞く。例えば憲法学とか法学、あるいは政治学や宗教学などは既に存在しているものを扱っている。基本的に新しい技術や原理を生み出すのではなく、またそれが誰の目にも明らかではないからである。概念や原理を構築することはあっても、それは目に見えるものではなく観念的なものに限定される。もちろん理系でも新しい概念や理論、あるいは物質や現象の真偽は問われるので似ているが、それは論によってというよりは真実の解明により行われる。

 文系の研究を否定してるわけではないが、自らの学界における地位を築き上げるのは論の正当性論争によるとすれば、理系のそれとはかなり異なる。また、仮に学術的には何らかの主義主張があっても良いと思うが、研究者として政治活動とは一線を引いた存在であるべきだとも思う。学術に政治を持ち込むことは、政治が学術を利用するのと同じくらい大学教員としてのバランスを欠いている。個人的立場でそれを行うことは自由だが、その結果受ける評価は甘んじて受けるべきだろう。その線引きが難しいのは文系特有のことなのかもしれないが、学術会議問題で任命拒否された人たちに同情の念を感じない最大の理由はそこにある。

 

 ただ、理系文系に関わらず政治的な情報(特に国際情勢)に関する鈍感さは、日本社会と同じように大学教員も保有している。むしろ研究できるのであればそういうことは全く気にかけないというのが実情だ。米中の紛争が今後激化すれば、中国の大学で研究するというのは非常に高いリスクを負うことになるだろう。近日中に中国との共同研究は先端技術分野において困難になるだろうし、下手すれば出張等も難しくなる可能性は低くない。大学教員の基本的思考は、自分の好きな研究をさせてくれる(資金をくれる=飯を食える)場所ならどこにでも行くという感じがある。これはおそらく昔から変わっていない。ただ、それが国際的な政治状況により左右されることに対し、もう少し敏感にならなければならないとは思う。

 学者だけが世間を知らないわけではないし、学者には政治や行政からの影響に対して拒絶反応を示す人が少なくないのは承知しているが、私は大学教員がそれほど飛びぬけた特別な存在とは思ってい無し、そのようなエリート意識を持っていることに大きな問題があると思っている。実際、いろいろな試練を潜り抜けて教授に昇進した人で、そのことに高いプライドを持っている人に幾度もであったが、その人たちのプライド故に言う言葉は私に響いたことはない。今回の学術会議問題で任命拒否を受けた人たちの言動にも非常によく似た気配を感じるのは偶然だろうか。

 それこそが上級国民として社会から批判を受けるような存在であると自ら主張しているように思うのだが。

 

 学者が世間を知らないという事実を確認するよりも、自分たちが社会的に尊敬を受けるのは自分個人ではなくその地位に付随したものである人が多いことをもっと自覚すべきであろう。そして、仮に教授の地位についてもそれが到達点ではなく、学界の重鎮になってもそこから何をするかが問われていると考えるべきではないか。こうした点についてオタク的な気質の強い理系研究者の方が、鈍感であるが故にバランスが取れているように思う。

 私は学術会議そのものを無くしてしまうのが良いとは思わないが、政治的な主義主張とは離れた組織には変わってほしいと思う。今回の問題はそのための奇貨とすべきであろう。

破壊芸術の価値は如何ほど

 従来、芸術は創造することへの価値づけであった。ところがデュシャンマルセル・デュシャン - Wikipedia)以来、創造以外の価値が新たに芸術に与えられたことは社会の広がりや多様性を考えれば間違いではないだろう。それらは現代芸術として花開き、今では多くの芸術家が現代芸術あるいはインスタレーションなどの展示を行う。だが芸術の範疇を広げることが、必ずしもイコール価値のあるものを広げるものではないというのはなんとなく理解できないだろうか。例えば、「滅びの美学」という言葉があるのは事実で、朽ちていくものにも私たちは美しさを感じることがある。だが、それを積極的に壊していくものにどれだけの美があるのかは、私にはなかなか理解できないでいる。美の範疇を広げることは容易だが、広げられた範疇は美の相対的な価値を薄めていく。美にも、感覚に左右する側面もあれば知性に訴えかける部位もある。そのことは感覚的にも理解できる。ただ、知性のみに訴えるものが「美」あるいは「芸術」でどれだけの地位を築けるかにはやや疑問を持っている。それは、芸術ではなく哲学であり主張ではないか。

 

 現代芸術により広げられた芸術の範疇は、社会おける美の価値をむしろ低下させる方向に働いていると感じている。アイドルが乱立することで価値を低下させていったように、あるいは小説が投稿サイトで容易に掲載されるようになったことで小説家の自立が難しくなったように。もちろん、それも社会の一つの流れであるので、こうした流れが生まれることに反対するつもりはない。現代芸術のような社会的な芸術活動が広がった理由として、芸術表現の限界を規定してきた古典への反発という側面は確かにあろう。だが、一方で王道たる芸術に背を向けることに邪道的な価値を見出してしまったとも感じている。試行錯誤としてのそれに意味はあろうが、私は完成した芸術と呼ぶことには疑問を感じる。それは普遍的な価値を持たない、時間限定のものであるのだから。

 いや、主義主張としての芸術表現をすべて否定しようというつもりはない。それも立派な表現の自由である。ただ、その訴えは必ずしも私たちの心を豊かにするわけではないという気持ちを捨てきれない。芸術が社会性を帯びるほどに、それは社会的・政治的主義主張と結びついていく。その傾向が高まるほどに、芸術本来の持つ創造性から離れていくような気がするのである。

 

 以前、愛知トリエンナーレでその問題が表面化した。私はトリエンナーレの取り組みには否定的な意見を持つが、それは政治的な指向性が強く出ていたということに留まらず、本来の芸術が持つべき健全な創造性に背を向けていると考えているからである。芸術が社会的な議論を巻き起こすことは過去からも繰り返され、そのことの是非を問うつもりはない。ただ、それは政治的な主張が見えかくれしない芸術の純粋な是非について語られるべきであり、結果として社会から否定されることも受け入れるような問いかけであることが必要だと思う。トリエンナーレで主催者側に疑問を感じたのは、実は今問題となっている学術会議問題と同じ構造である。自分たちの無辜性を主張するために被害者のポジションを取るべきではないということだ。

 表現の自由も学問の自由も、どちらも問題が生じたことで侵されたわけではない。先品を制作することを止められたわけでもなく、大学を追い出され研究を停止されたわけでもない。自分たちの常識で当然獲得できると考えていた利益を得られなかったに過ぎない。失ったのではなく、自らのプライドが傷つけられたのである。要するに思い通りにいかなかったと癇癪を起しているのだ。システムとして学術会議の今の形が良いかどうかを見直すことは必要だし、状況によっては今回の拒否の理由を公表することもあるだろう。そして、学問分野の偏りを理由に拒否したと政府が回答すれば、それ以上の追求はできなくなる。その上で、この政府判断に対する妥当性の判断は社会が行う。公益を考えた上で、学術会議と言う存在が社会的なバランスを維持できているかどうかという指標において。どう考えても、任命拒否を受けた側の論理は勝てそうにないのだが。そもそも、任命拒否された6名は現在「ヒトラー」などというレッテル張り(Mi2 on Twitter: "こういう人たちって、気に食わないことがあると、必ずヒトラーを引き合いに出すの得意技だよね。こんなことを平気で言う大学教授の方が恐ろしいわ。… ")をすることで、国民からの信用を次々と失い続けている。本当に違法な手続きであると思うのであれば、早々に裁判所に行政訴訟を越せばよい。違法と叫ぶだけで終わるということは、結果的に反対のイメージを与え続ける。このまま進むと、気づけば味方はいなくなるのではないか。

 

 芸術の話に戻ろう。私は破壊の美学や滅びの美学があっても良いと思うが、それは別の何かを棄損するものであってはならないと感じる。もちろん完全にあらゆるものの権利や尊厳を棄損しないというのは無理だが、少なくとも特定の何かをターゲットにすべきではないと思う。もちろん創作は自由であるが公的な補助を受けるには値しないと考える。その上で、破壊や棄損の価値が闊歩する世界にはなってほしくない。狭い世界で趣味として作られる分には自由で良いと思うが、それがメジャーになるような状況は好ましくないと思う。

 現在、高須氏(高須克弥 (@katsuyatakasu) | Twitter)を中心とした大村愛知県知事へのリコール署名運動が進められている。私は以前より、大村氏の政治的な手腕については評価していない(行政的には一定の能力を有しているのだろうが)。むしろ、人気のある河村名古屋市長の尻馬に乗って今の地位を築いたと思っている。愛知県民ではないので、この活動がどうなるかを単に注視するしかないが、県民の力によりリコールが成立するとすれば大きな成果であろう。

 税金に集る存在については、以前より否定的に考えてきた。実際、省庁の外郭団体などもこうした傾向が相当に高く、廃止すべきものも未だに少なからず生き延びていると思う。そして、トリエンナーレ以外の自治体事業にも同じように数多くの税金にぶら下がる存在が数多くいる。それらは、いつの間にかルールの隙間を縫って税金に集る。実はこの問題は表現の自由が焦点ではなく、税金にすり寄りそれを利権とする活動がポイントだと思っているからこそ、私は否定的に捉えている。

 自分たちの活動が社会に必要だと信じているからこそ、芸術に携わる人たちは表現の自由を理由に自らに資金を投じるように主張する。だが、それは関係者が決めるものではなく社会が決めるものである。そして、私は破壊の芸術にはその価値を見出さない。

中国はなぜ戦狼外交に走るのか

 中国政府である中国共産党は、「戦狼外交(戦狼外交 - Wikipedia)」と呼ばれる外交スタイルを拡大している。インドとは深刻な国境紛争を繰り広げ、インド政府が民意に後押しされる形で許容する全面的な中国製品ボイコットが広がっている(中国ボイコットに突き進むインドの危うさ | 公益社団法人 日本経済研究センター:Japan Center for Economic Research)。これは韓国がNO JAPAN運動を行いながら日本製品に依存している状況に近いかもしれないが、アメリカが進める中国とのデカップリングを考えると、経済的な痛みは伴うものの一つの決断とも取れる。

 インドとの軋轢の前には、南シナ海問題での対ベトナム、対フィリピンの衝突もあった上で、その後にはオーストラリアとの様々な衝突(WEB特集 広がる「中国警戒論」オーストラリアで何が?支局長が解説 | 国際特集 | NHKニュース)も繰り広げている。台湾との関係についても香港問題を背景に民主党が大勝し、中国の影響が大きく後退する形になっている。更には、一つの中国に関しアメリカが徐々にその状況を改変しつつあり、実質的に台湾を守るための様々な布石を打っている(習近平も慌てふためく…激怒したアメリカが、台湾を本気で支援し始めた(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース)。

 一時期はアメリカへの感情的な反発もあり、中国の札束外交にすり寄っていた欧州ですら、徐々にではあるが中国との距離を置き始めた。一帯一路に参加していたイタリアですらファーウェイ排除に乗り出し(イタリア政府、ファーウェイと国内通信企業との5G機器供給契約を阻止 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)、蜜月と伝えられたドイツ(メルケル独裁16年間のつけ、中国がこけたらドイツもこけるのか?(大原 浩) | 現代ビジネス | 講談社(1/5))ですらも態度を硬化させ始めている(中国がドイツのライバル、パートナーから変化 - WSJ)。特に、これまでドイツが目をつぶってきた人権問題(ドイツ政財界が「中国の独裁政治」を問題視しない残念な理由(川口 マーン 惠美) | 現代ビジネス | 講談社(1/4))での反発が広がり始めているようだ(ドイツ政府と人権問題 - ドイツ生活情報満載!ドイツニュースダイジェスト)。

 日本に対して、現在口頭では秋波を送っている状況(世界的孤立進む中国が韓国などに秋波、日本はどう対応すべきか | 今週のキーワード 真壁昭夫 | ダイヤモンド・オンライン)だが、実質的には尖閣周辺(尖閣周辺に中国船 48日連続 - 産経ニュース)や大和堆における侵入(能登沖に中国漁船急増 北朝鮮公船も、日本は操業自粛:時事ドットコム)などにより、口頭での外交はほとんど意味をなしていない。アメリカを中心とした政府レベルでの対中国網は遅まきながら徐々に進行していると見てよい。ただ、民間企業がその足並みを揃えていないのは日本の弱点であり、経済界に配慮して強力に政府が推進できていないことも今後に禍根を残す可能性は高い。もちろん、それを後押ししているのは親中派の議員である。

 

 このように日本やアメリカだけでなく、欧州もまだ中国の影響を容易に排除できるような状況ではない(【米中デカップリングはあり得ない!?】 : 飯田香織ブログ 担々麺とアジサイとちょっと経済)が、アメリカが進め日本が絵図を描く中国包囲網と経済切り離しは、少しずつではあるが確実に進行している。アメリカでは人権問題について、共和党よりも民主党の方が強硬であるとされる。また、議会の態度は反中国で固まっており、バイデンよりもトランプの方が中国に優しいという声もある。トランプはビジネスマンであり同時にエンターテイナーであるためパフォーマンスを優先し、その上で戦争状況を導くことを恐れているという考えには同意したい。トランプは在任中に最も戦争をしていないアメリカ大統領である(米国人は戦争に興味のないトランプを選んだ - 園田耕司|論座 - 朝日新聞社の言論サイト)。ただ、様々な報道を見ていると中国はバイデン当選を望んでいるようにも見える。これは、トランプ個人の問題よりはトランプのパフォーマンスが最終的に反中国の世界的な同盟につながるという危機感からではないか。バイデンの方が強硬に見えて、直接的にはソフトに対応するため時間稼ぎができるというのもあろう。更にこれは憶測にすぎないが、息子の醜聞を材料に脅しをかけられるという側面はありそうだ。

 

 さて、遅まきながらも本題に入ろう。中国は世界的に見ても大きな影響力を獲得し、十分な経済力も得た。むしろ、世界に対して恫喝をかけるようなことをしない方がより好意的に迎えられるのは、子供でも分かりそうな話である。表明している種々の統計数値が仮に嘘であったとしても、それを超えて余りある実力を中国は既に身につけた。ところが、現実には中国は世界中との軋轢を広げる方向に舵を切っている。

 その理由として、三つほど上げてみたい。まず最初には、中国の文化とし強者は弱者に対して攻撃的に出ることを許容する傾向があることを指摘したい。これは文化圏が似ている韓国においても同様の傾向がみられるが、強くなったからこそ強硬に対処するというものである。かつての韜光養晦韜光養晦 - Wikipedia)戦術は、中国の力が十分ではないからこそやむを得ず用いてきたもので、その我慢が中国人のプライドをずっと傷つけてきたという認識を持っているのではないか。

 しかし一定の力を得た現在ではこれ以上欧米の下につくことに我慢ができず、その仮面を取り払い始めた。仮にこの推測が正しいとすれば、今後も中国がどれだけ甘言を弄しようが中国の高圧的な態度は変わらないだろう。だからこそ、中国中心の社会を許容すべきではないと私が考える理由でもある。ただ、中国国内でも態度を豹変するのが早すぎるという意見はあるだろう。ただ、その意見も方向性は変わらず単にスピード調整をしようという違いに過ぎない。そうなる理由は次に続く。

 

 第二に、中国国内を抑えられないという危機感ではないかと思う。例えば、インドとの国境紛争もそうだし、世界各国で軋轢を生んでいる不法漁業や乱獲もそうだが、中国人民の飽くなき欲求を抑えられないというものである。前者は人民解放軍を抑えられないことによるもので、彼らの欲求を少しずつ満たしながら政策を進めなければならないことから、他国との軋轢を許容せざるを得ないというものである。「中国の夢(中国の夢 - Wikipedia)」というスローガンを打ち出している以上、国民を満足させ続けなければならない。だが、同時に中所得国の罠(中所得国の罠 - Wikipedia)に既に陥ったと考えられるため、これ以上の順調な経済成長を実現することは難しい。だからこそ、外部に敵を作ることで世論を操作する戦略である。名部を統制しながら、外部に敵を作る。チベットウイグルだけでなく、内モンゴルなどの統制(中国人に同化されゆく内モンゴルの問題は内政問題にあらず | 楊海英 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)にも動くのは、巨大国家を維持し続けなければならないという強迫観念によるものでもある。中国がいくつかの地域に分解すれば、今のような国際的な影響力を維持できないのは間違いない。そのきっかけが香港であり、ウイグルであり、内モンゴルとなることを恐れていると考えるのが素直なところである。この傾向も、同じ路線を進む限り先鋭化していくことになる。

 素直に考えれば、中国の経済状況がここから再び改善する可能性はほとんどない。更に中国の拡大路線を抑制すべくアメリカは動いており、残念ながら中国自身の攻撃的な外交によりアメリカの戦略は世界的な広がりを見せている。だから、現在のような方向性がいつまで維持できるかはわからない。要するに袋小路に追い込まれたようなものである。共産党体制を維持しようとすれば、結局は世界と対立せざるを得ないのである。人民の不満を強権的であれ抑えつつ、人民の夢を理由に暴走機関車のように拡大路線を走るしかない。

 

 第三に、習近平の自己保身である。中国国内の権力闘争は様々な識者が分析しているが、かなり熾烈なものである。それを力でねじ伏せてきて今の地位を築いたとすれば、外交で弱い姿を見せるわけにはいかない。現在中国の体制は民主化とは逆の方向を指向している。これはアメリカが想定してきた状態と明らかに異なっているため、現在の米中対立が発生するに至った。結局、中国と言う巨大国家を維持するためには強権的であることが必須なのだ。そして、この状態を命題として規定してしまったため、習近平には選択の余地が無くなってしまっている。少しでも後ろに下がれば、自分の地位や場合によっては生命の危機まで及ぶことになる。権力闘争の結果とは言えど、自縄自縛の状況に陥っている。かつて中国が持っていた柔軟さやしたたかさは、習近平が自らに課した命題により捨て去られている。だからこそ、国際的にも後には引けない。少なくとも中国が舐められたという評価を受けるわけにはいかないのである。

 私は中国が生き延びるためには、連邦国家として分裂しながら協力する形態が最もふさわしいと考えてきた。しかし、それはもはや不可能な状況に陥りつつある。様々な経済バブルの崩壊と同じように、場当たり的な自己保身の対応策を経ることにより、バブルは制御不可能になっていき、最終的には何らかの形で破裂する。この状況は習近平による中国の夢バブルと呼ぶべきではないかと思う。

金利上昇と不動産バブル崩壊、そして民主主義の試練

 コロナ問題は、再びの冬を目前に欧州(独コロナ新規感染者急増、24時間で1万1287人 過去最多を大幅更新 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News)やアメリカ(米国のコロナ感染者、1日で7万9963人 過去最多 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News)で再活性化の状況(スペインのコロナ感染者、実は「3百万人超」と首相 公式発表は百万人 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News)を迎えつつある。特に第一波ではそこまで広がっていなかった東欧での感染爆発の可能性(ポーランド大統領、コロナ検査で陽性 国内で感染拡大 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News)がありそうだ。一方、中国での感染状況の実態は正直なところ分からないが、それでも大都市で急速に広がるといった気配はない。総じて、東アジアおよびオセアニアでは感染状況が安定しているように見える。ただ、開発中のワクチンによりコロナが容易に制圧できないであろうことは何となく予想できることから、今後コロナはインフルエンザと同様に社会に定着する可能性は高そうだ。それは何を導き何を意味するのか。私は、恒常的な人間の活動量の低下であり、徐々にではあるが社会の縮小化を促すのではないかと考える。従来より日本では人口減少により社会の縮小が進行している。都市はコンパクト化を推進し、企業はIT化や自動化による人減らしを続けている。だからこそ、観光や遊びを社会の活力として進めなければならない状況になっている。それは社会の成熟がもたらすものと言えなくもないが、縮小社会の行き着く先とも取れる。

 さてそんな中、世界ではコロナによる経済の落ち込みを防止するため、過去に類を見ない経済緩和を実施している。おかげで、失業率も高くV字回復も望めないにも関わらず株価はコロナショック前のレベルに復活し、一部ではそれを大きく超えて上昇した。一方で、コロナ感染の拡大により上昇した債券価格がじりじりと下げ始めている(11月3日に迫った米大統領選挙、心配な暴動)。株価が上昇し債券価格が下がるのは景気がよい時の生じるパターンであるが、実際には世界的な景気は最悪の状況にいる。債券価格が下げるということは金利が上昇すると基本的にイコールであり、コロナショック直後に危機がささやかれ、政府や中央銀行ついにジャンク債まで購入するFRBの危機感 | コロナ戦争を読み解く | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準)の金融緩和により生きながらえたジャンク債が再び危機を迎える可能性が高まることを意味する。金利が上昇すれば格付けは下がり、同時に政府支出が難しくなるからである。そしてもう一つ、不動産業界が大きなダメージを受けるということにもなる。

 

 不動産は大口の投資家による大規模投資もあるが、同時に数多くの不動産ローンを抱える業界でもある。そして、コロナにより収入の途絶えた人たちのローン返済や賃貸物件の賃料支払い問題が既に生じている(世界的に住宅ローンの延滞が急増しそうだ | 大槻奈那先生、金融の修羅をゆく | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準)。それらは一時的に政府方針で猶予された(海外で強まる「家賃猶予」の動き、今後日本にも波及するか |楽待不動産投資新聞)としても、必ずどこかの段階で破裂するだろう。コロナ不況が政府とが設定する猶予期間内で収まるのであればともかく、私はその時間で終わるとは思えない。コロナは社会の仕組みを変える。だから、今復帰が困難な業界はそのままでは元には戻らない。現在は、給与に変動のなかった人たちによる郊外移動による新築業界のプチバブル(NAR Research on Twitter: "Total existing-home sales rose 9.4% from August to a seasonally-adjusted annual rate of 6.54 million in September. #NAREHS… https://t.co/pX65ca0M9e")がアメリカでは発生している(米住宅着工件数、9月は増加-需要増の一戸建て約13年ぶり高水準 - Bloomberg)が、それは長続きするものではない。逆に言えば都市中心部では人が消えているということでもある。

 かなり以前より、シリコンバレー周辺では不動産が高騰しすぎて一般的な給与では住めないということが常態化していた。日本ではそれほどではないが、世界の多くの地域では不動産価格がかなりバブル化している。金利が上昇しコロナ不況が今後も継続すれば、MBS住宅ローン担保証券)が下落しリーマンショックと同様に金融危機に波及する可能性が大きく跳ね上がる。もちろん、アメリカ政府などがリーマンショックと同じ轍を踏むとは思わないが、既に過去の例のない金融緩和を行い、さらにはそれを継続する意向を示しており打つ手が限られることになるのではないか。

 また、政府の財政出動が増加すれば一時的に株価が上昇するだろうが、先ほども触れた金利の上昇によりより大きなダメージを受けると考えられるからである。確かに、日本政府は以前から大きな財政支出を続けてきている。基軸通貨国であるアメリカも同じで、こうした国々は財政支出を継続できる可能性は高いだろう。だが、それ以外の国家にその余力はない。だが不景気を放置できずに支出をせざるを得ないとすれば、その先にあるのは金利上昇と不動産バブル崩壊ではないか。そしてその後に大きな金融危機に至り株価も下落する。ただ、世界には溢れるほどの資金が存在するため、それがどこで噴き上がるかはわからない。

 

 さらに言えば、不動産バブル崩壊に最も近い国がある。それが政府統制によりかろうじて不動産バブルを維持し続けている中国であり、ソウルなどでの不動産バブルを抑制できない韓国である。両者は似て非なる状態にあり、バブルの加速を抑制しつつも経済失速を恐れ不動産価格下落策もとれないのが中国であり、文政権による執拗な不動産価格抑制策が全く機能していないのが韓国である。私個人の考えとしては、先に引金を引くことになるのは韓国ではないかと思っているが、まだその時期については何とも言えない。不動産から抜けた資金は、別の何かを持ち上げていく。

 アメリカを中心としたカネ余りが引き起こした仮初のバブルが世界中に感染し、その果実たる爆弾が各地で成長している。今はそれをギリギリのところで制御しながら、さらにバブルを拡大させているのが現状である。これが破裂するとすれば、その影響は決して小さくはないというか、未曽有の現象を引き起こすだろう。怖いのは、世界中のものを買い占める形でのインフレーションの進展であろうか。供給過多の場所ではカネ余りがあってもインフレが生じないのは、近年の日本が体現している。だが、それを維持できる国家は限定されている。その上で、カネ余りバブル病は世界にスタグフレーションをまき散らすのではないかと懸念する。アラブの春が世界中で形を変えて生じるとすれば、世界の構図は大きく変わるかもしれない。それは私たちが望む民主主義にとっては悪夢の姿をしているだろう。

一部研究者の傲慢な態度が研究環境を悪化させる

 様々な学会が批判の声明を出し始めた(6人任命拒否を「憂慮」 自然科学系93学会が緊急声明 [日本学術会議]:朝日新聞デジタル)。もちろん政府を批判するのが悪いとは思わないが、仰々しく扱うことで日本の研究環境はさらに悪化するのではないかと個人的には懸念を抱いている。右派の人が言うほど日本学術会議全体がが酷いものではないと思うし、一方で今回推薦が承認されなかった人たちが必ず推薦されるべきとも思わない。政権に批判的であったから承認されないというような単純な話でもないように思うが、今政府がアメリカなどと取り組んでいる戦略にそぐわないという話はあるかもしれない。そこに手を入れるための政府側の仕掛けと考えることもできる。今、米中間で生じている多くの葛藤は、デカップリングという形で進行中だ。だが、同盟国であり中国から数々の脅威を受けている日本の動きはアメリカと比べるとかなり遅い。特に、企業の中国進出はアメリカよりも遅く、学術界での中国外しは一向に進んでいない。

 アメリカに全て従わなければならないとは思わないが、中国の膨張圧力を抑えるためには一国では対処できない。だからこそ、現在オーストラリアやインドなどと連携を深めているし、まだまだ煮え切らないもののEUも少しずつ中国に対する方向に動き出している。今回の日本学術会議問題は、政治が学術界に手を入れたという話というよりはむしろ、現在の世界情勢を受けて学術界の意識を変えようとする意味の方が大きのではないか。

 

 ところで今回の件では概ね、大学でもポストを削られ続けている人文系・社会学系が強く反対しているようだ(上記の様に自然科学系も学会としては声明を出しているが、それほど強烈なものではない)。まあ、以前よりも政府(財務省)から目の敵の様にされているので、積もり積もった不満が合うことは予想できる。それは今回の問題をきっかけに噴出したと見たほうが良いのかもしれない。ただ、元研究者である静岡県知事の発言(「学問立国に泥」静岡県知事、学術会議人事を批判「首相の教養レベル露見」 - 毎日新聞)は、その傲慢な言葉が味方である学者たちを後ろから撃っている。少なくとも、社会的には大きく敵を増やしたであろうし、この運動に対し国民が敵に回る可能性を相当に高めてしまった。苦々しく聞いている研究者は多いだろう。

 もっとも、そんなことよりこの問題を機として研究環境が悪化することを大きく危惧する。日本が学術研究に支払う費用が著しく減少しているわけでないのは予算等を見れば容易に分かるが、アメリカや中国が実施している潤沢な支援からすれば見劣りするのも事実である。研究に投入されている金額の桁が異なる。社会システムの違いはあるため容易に比較できないが、元々日本の科学研究費用はアメリカと比べて少ない。日本の場合には、少ない資金で上手く結果を出してきたというイメージの方が強い。

 更に重要なことは、日本では大学が多く作られすぎて研究資金や環境が希薄化していることではないかと思う。優秀な研究者に資金を配分したいが、その他の研究者にも一定の資金配分は必要。両者を満たそうとすれば相当大きな追加資金を財政より捻出しなければならないが、そんなことが不可能なのは誰もがわかっている。予算の問題としては、大学教員の定年が65歳に延長され平均年齢が上昇したことから人件費が嵩んでいるという問題もある。ようやく最近若返りに着手しているが、高齢の教員が大きな研究成果もあげないままに居座っているケースもよく見かける。そういうのも含めて、研究のすそ野の広さという意見もあろうが、多少の効率化は図りたいものである。

 それを解決するのは非常に簡単な話だが、大学の数を減少すればよいだけ。タケノコのように乱立した大学を減らせば、一人当たりの研究者に届く資金は潤沢になる。

 

 ただ、最も懸念する点は今回の問題を政治による学術界への圧力と捉える向きが大きいことが気になっている。どう考えても、デカップリングに伴う中国外しを日本でも始めていくための一つのきっかけに過ぎない。日米の結束を乱し、中国に有利となるような活動をする人をピックアップして、その人にこれまで以上の地位や権力を与えないという取り組みと見たほうがいいのではないか。日本学術会議問題以外でも、既に科研費などで中国が関係する資金を得ているものは採択しない(あるいはそれを明示する:外国の資金協力、科研費にも開示義務 経済安保で厳格化 :日本経済新聞)という方向性が示されており、最終的には日本もデカップリングに踏み出すことになるだろう。

 とすれば、学術界はこうした世界の潮流を踏まえたうえでどのように取り組むかについて方策を考えなければならない。ここで正論とばかりに「中国とも話し合いながらうまくやるべきだ」などと叫んでみても、ほとんど意味がないことはわかるであろう。その意図をくみ取れずに政府に敵対しても、おそらく資金を絶たれるという形で干上がらせられるだけではないか。これは結局、外部との激しい競争がある中で社内紛争しているようなものである。さらには、自尊心を満たすための社内競争にライバル会社を引っ張りこんでいることにもなりかねない。

 

 政府に説明責任があるのは言うまでもないが、個別の人事について答えないのはこれまでも当然のように行われてきた。クビの理由をいちいち詳細に説明したりはしない。こうした行政措置に対し論争してもよいし、裁判にまで持ち込むのも自由である。私は与するつもりはないが、やりたければやればよい。ただ、政治家の資質や人格を貶めるような言動、あるいは政治家を見下すような傲慢な言動を一部の学者が行うほどに、学術界に対する世間の視線は悪化していく。これは学問の自由の問題ではなく、政治と学術の間における政治闘争である。そんなものを国民は期待していないし、時間が経過するほどに学術界が傲慢に見えるほどに敗北に追い込まれていくのである。

 学者の給与が飛びぬけて高い訳でもないし、自由に使えるお金がほとんどないのも知っている。だが、それでも世間からすれば学術界は好きな研究に打ち込めるという意味で特別な地位にあると考えられている。その成果は、政治闘争ではなく学術成果で社会に返すべきものである。国民が持つにいたる冷ややかな視線は、将来的に学術界に今以上に厳しい要求を突きつけさせるであろう。今は、そのことを最も懸念している。

日本学術会議問題

 また忙しさにかまけてエントリをさぼっていたが、たまには何かに触れておこうと表題について考える。私などは、縁もゆかりもない状態ではあるが、日本学術会議日本学術会議|わが国の科学者の内外に対する代表機関)という組織が存在する。その詳細は既にいろいろな報道で明らかになっているように、優れた業績を認められた(と学術会議が推薦する)人が交代で運営する機関で、政府からその資金が出ているが、所属しても言うほどお金がもらえるものではない。ただ、政府が設置しているアカデミズムの元老院的な位置づけであることから、メンバーは社会的な権威を獲得できる。その一部は学士院に入ることになり、また別の人たちは文化勲章等の各種褒賞候補になるという意味で、将来的にも研究者というよりは名士としての地位を固めるために都合の良い組織である。少なくとも研究者や学者を代表する組織であるとは私は思わない。

 すなわち、マスコミが喧伝するように「学問の自由を云々」という問題とは全く異なり、そこに所属できなかったから学問の自由が侵害されるものでは全くない。むしろ、学界の政治圧力団体としての地位を担保するための組織であると考える。逆に言えば、政府が設置しているからこそ認められているという側面もある。

 

 これも既にニュースとなっているが、日本学術会議が提言した内容が国民にとって望ましいものとは言えないことがわかってきた(「総理は多様性を認め、政策に生かして」 日本学術会議・大西隆元会長が本紙に寄稿:東京新聞 TOKYO Web)。どうやら、レジ袋有料化や消費税増税を提言しているという。これ以外にも一部の有望な研究を会議の幹部が圧力をかけたこと(北大・永田教授、学術会議の圧力に言及 防衛省の制度への応募が禁止に(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース)なども報じられている。

 

 個人的な感想を言えば、全くどうでもよい問題にマスコミと野党が飛びついたというものでしかない。まったくもってくだらない。日本学術会議にも当然意義はあり、役立つ活動もしていると思うが、逆に意味のない問題のある活動も行っているだろう。そして、そうした問題ある活動が特定の思想を持つ研究者により牽引されているとすれば、それは是正されるべきだと思う。

 今回の問題が明らかにしたのは、これまで国民が政府を信用して特に追及されることのなかった組織が、問題を持っているかもしれないと社会に知らしめられたことではないか。私は推薦を拒否された研究者を知っているわけではないが、こんなことで政権が倒れるようなことはあり得ないと思うし、逆にあってはならないと思う。

 また、私の想像に過ぎないが日本学術会議とは関係ない大部分の学者や研究者は、高慢な態度でマスコミに出るこうした人たちのことを苦々しく思っているであろう。

 

 さて、今回の問題を受けて実は政府が失策と感じている政策の一部を、日本学術会議に押し付けて問題の回収を図るのではないかという意見を見かけた(U.S.S.BlackPrince on Twitter: "レジ袋有料化とか、財政再建のための消費税増税とか、日本学術会議がこれまでしたという提言がどれもこれもヤバイ、どれくらいヤバいかというと、近年の失政のきっかけを全部押し付けられそうなぐらいヤバい。")。私もありそうな話だと思う。さすがに会議自体を無くしてしまうというのは極論だろうが、責任の押し付けくらいはするのではないだろうか。

 

 学者や研究者と言えど、政府に従わなければならないという理由はない。だが、大学には一種の左翼病と言ってもよいような状態が未だ存在し、世の中の労働団体が大人しくなっているこの時代において、マスコミと共に最後の牙城を形成しているともいえる。世界情勢がダイナミックに変化している現代において、実はその流れに最も取り残されているのがアカデミアであり、特に人文系の分野であろうと感じる人は、私のほかにも少なくないと思う。

 人文・社会学系にも素晴らしい人は数多く存在し、立派な研究を続けられているし、理系でも変な先生も一杯いる。ただ、一部の活動家のような学者の意見がアカデミアの総意でないこともまた事実であろう。弁護士会の声明が弁護士の総意でないように、この問題も考えるべきであろう。

 

 まあ、今回の騒動はメディアが考えるほどには学界に有利なものではないと私は思う。加えて脊髄反射的にこれを支持する野党議員にも溜息しか出ない。政府が暴走すればそれを止めることは各所に求められると思うが、私としては政府は暴走しているとは思わない。見直すべきところは、きちんと見直せばいいのではないか。少なくとも何十年も前の「推薦には口を出さない」なんて言葉を絶対視することに、私は意義を見出すことはないだろう。

 まあ、これにより他の考えるべき重要な問題が放り出されていることこそ、野党に問い詰めたいことではある。モリカケから全く進歩していないのだから。

残り続けるアベガー

 今回辞任した安倍総理の将来的な再登板説もいまだに根強いが、その可能性はかなり低いと考えている。体調を理由に二度途中降板した実績はさすがに大きすぎる。今後はその知己を生かした世界首脳との仲を取り持つだけでなく、森元総理のように背後で調整する存在になっていくのではないかと思う。

 さて、今回の新しい自民党総裁選は菅官房長官の独走状態になった。ここまくれば菅氏が勝つのは自明ではあるが、保守本流の流れを汲むお上品な岸田氏と、ゲリラ戦法で仲間すらも後ろから撃ち続けてきたが野党に近い政治理念でマスコミ受けの良い石破氏がどれだけ賛同を得られるかにかかっている。その量が少なければ、次の総裁選の目が潰えてしまう誰もが気づいているだろう。

 

 さて、「アベロス」ともいえる現象は安倍総理支持派だけではなく、反安倍派にも大きく広がっている。反安倍派という存在が大きくなった最大の理由は、その政策ではなく長期政権であったことであるが、もう一つに安倍総理が比較的感情に訴える方法論を取ってきたからではないかと考えている。拉致問題その他において、理性よりは感情論を前に対処することが少なくなく、そのことが関係者の安倍総理支持に大きくつながってきた。諸外国首脳との関係性の深さも、これに基づくケースが少なくないと思う。もちろん感情論以外の能力が低いわけではなく、麻生副総理と二人で上手く分担して政治を進めてきた。

 さて、感情を利用するのは実のところ政治的な左派やマスコミが最も得意とするところである。要するに、自分たちが最も実行したい方法論で国民の支持を得たのが安倍政権だったというある種の妬みがあったのではないか。だからこそ、ほとんど中傷にも近い無理筋の攻撃を受け続けた。言い方が正しいかはわからないが、安倍総理は反安倍派にとっての一つの理想であったのだ。もちろん政治的な方向性は違うが。

 自分たちの方法論に近いほどに、成功した人への妬みが多いくなる。なぜ、同じようにやっている自分たちは支持されないのかと。それが全てというつもりはないが、こうした感情の発露こそが「アベガー」にとながってきた。そして、広がりを見せるに至った。

 

 しかし、菅官房長官のキャラクターは安倍総理とは全く異なる。感情的な仕草はほとんど見せない、着実でやや冷徹にも見える実務派である。だから、就任当初には多少なりとも「スガガー」の声を上げようとするが、その声は仲間内にすらそれほど広がらないと思う。いつぞや、朝日新聞が勝手な造語である「アベする?」なんて広めようとしたが、全く忘れ去られたのと同じようなもの。

 結果として、政治的活動の「アベガー」は今後も残り続ける。安倍政権の流れを踏襲する菅政権ガーという訳だ。なかなかに、彼らの中に巣くった安倍総理への思いは強烈なのだ。もはや「恋」と言ってもよいほどに、いや「ストーカー」と呼称した方が良いのではないか。

 通常であれば、退陣後の総理にマスコミは興味を示さない。攻める意味が大きくないからである。だが、今でも報道を見る限り「スガガー」の声は韓国から「安重根」は犯罪者だと菅氏がかつて言ったという程度(「安重根は犯罪者」…日本の次期首相有力候補、菅義偉が残した言葉=韓国の反応 : カイカイ反応通信)しかない。現状のマスコミの報道は無駄な抵抗たる石破押しと、叩き上げ人生である菅氏の軌跡をたどる程度。今後も、多少の何かは出てきても安倍政権時ほどの大きなうねりには至らないだろう。

 

 実際、菅政権は短期政権になることが確実である。総裁残任期が1年であること以上に、その前に衆議院解散による総選挙を実施しなければならないことを考えると短期リリーフになることはほぼ確実である。それを乗り切ってもう一期継続するためには、選挙の一定以上の勝利と今後襲い来るであろう正解的な経済低調に加え、アメリカと中国の貿易戦争(を超える争い)を乗り切ることが求められる。

 これはなかなかに容易ではない。それを行うためには安倍総理の交友関係(アメリカ新大統領との友好が必須)を最大限に生かすことと、経済的に大胆な対策を打てることが求められる。菅氏にすら任が重い内容だが、公家の岸田氏ではハンドリングが困難であり、素人に近くろくな仲間もいない石破氏では日本は難破しかねない。

 

 そんな多難な状況の中、反政府的な人々はこれからも「アベガー」を相も変わらず叫び続けていく。「嫌よ嫌よも好きのうち」とは言い得て妙だが、ねじ曲がった愛情が今後も私たちの目を楽しませてくれるのではないか。

帰ってきた民主党は変われない

 安倍総理辞任の報によりすっかり埋もれてしまった感もあるが、国民民主党が解党(分党?)して、立憲民主党と合流するという話が継続して進められている。最終的に新党を再び立ち上げるのか吸収という形になるのかはわからないが、元の木阿弥に戻ったことは確かである。いや、むしろ保守系の政治家があまり戻っていないことで、純化が進んだと言ってもよいかもしれない。既にネット上やメディアでも言われているが、イメージとしては今は亡き社会党への回帰に近いのではないだろうか。この騒動は、お金を持つが支持率がほぼゼロである国民民主党と、少ないながらもある程度の支持率を維持しているが政党助成金が少ない立憲民主党の、選挙を睨んだ互助的な合従連衡に過ぎないのは、多くの人も見透かしているだろう。

 

 だが、自民党への対応勢力ととして自らを位置づける立憲民主党に対し、一向に支持を広まめられないのは政策(政治力を含む)や人物(能力を含む)に対する批判であるということには目をつぶり続けている。かつての民主党は理念のみで政権を奪ったが、その成果は多くの国民を満足させるものではなかった。この経験が現状を作り出している。人のうわさも六十五日と認識が変わるのを待ち続けていても、国民の意識はおそらく容易には変化しない。

 政治は人気商売であるが、その人気は実体験・実感により定まる。アイドルなどの疑似的なそれとは異なるというのが大きな特徴である。もちろん、日本の政治は他の国と異なり官僚が下支えしているため、極端な話を言えば政権政党共産党になっても急激に社会が変わることはないだろう。だが、そのかじ取りが日本をどのように変えるかという社会的な雰囲気は投票行動に影響する。逆に言えば、長期政権という飽きに似た雰囲気もまた日々の支持率にかなり影響している。マスコミの執拗で根拠の薄い責めに加えて、コロナ禍の対応ミス(ミスというよりは立ち回りのまずさ)で若干支持率を落としたが、辞任により一気に政権支持率を取り戻した(安倍内閣の支持率が20.9ポイント上昇 理由は「安倍さんごめんね」と分析 - ライブドアニュース)のは、少なからぬ国民が冷静に状況を判断した結果ではないかと思う。

 

 さて立憲民主党が政権に近づけるかと言えば、私は今のままでは到底その目はないとしか言いようがない。個々の議員の能力の低さもさることながら、代わり映えのしない執行部の面々に加え、国民世論をくみ取れない感度の低さが気になっている。結局、国民の意見に耳を傾けて政治を行っているのではなく、自分たちの政治信条に国民が合わせてくるのを待っているのである。かつて、自民党が長期与党の驕りを国民に罰せられた時、当時の民主党が一時的な支持を得たが、これは政策能力を認められたものではなくて、フレッシュさを期待されたに過ぎない。だが、現実には彼らは清廉さ以上に無能であった。それを国民は目にしたが故に、期待する清廉さでは無能さをカバーしきれないことを学んだのである。どれだけ耳障りの良い言葉を並べたとしても、そんなものでは政治はできやしない。

 さて、立憲民主党はかつての民主党、そして大きなイメージで言えば大昔の社会党に先祖返りしようとしている。そんな政党に誰が期待するかと言えば、結局は思想信条を同じにするコアな支持層しかない。マシな政党を選択するという浮動層にとって、立憲民主党は今のままでは支持に値しないままなのだ。本来は、だからこそ今からでも自らを変えて国民の考えやイメージ、そして理想に近づく努力をしなけrばならないと思うのだが、おそらく彼らは変われない。自らがイメージするものは能力ではなくファッションとしての政治だからである。

 都合の良いイメージしかない政治。そんなものは国民は10年前に見透かしている。むしろそれにより痛い目に遭ったとすら考えている。ところが、メディアで見る限りにおいてではあるが、繰り返しになるが彼らはその意識にギャップに気づいていない。あるいは気づかないふりをし続けている。

 

 今、世界ではイメージと現実の観念戦争が繰り広げられようとしている。BLM運動もそうだが米中(経済)戦争も同じ範疇にあるのではないかと感じている。正確に言えばイメージを前面に押し立てて政治的主張を通そうとするグループと、現実問題を中心に政策を主張するグループ。だが、イメージを中心に展開するグループのリアリティはむしろ醜悪にも見える。その先頭は中国であり、左派メディアである。そして、その後ろをついて行っているのが帰ってきた民主党ではないか。

 イメージ論は一見耳辺りの良い言葉で虚飾されるが、中身を読み解いていくとそれほど奇麗なものではない。結局は旧態依然の権力闘争に過ぎない。子供のころから、聞こえの良い言葉には裏があると聞かされてきたが、最近は特にその傾向が高まったように思う。できることなら、本質を突いた議論をもっと数多く見てみたいものである。

品性の下劣さを露呈した人たち

 安倍総理が持病の再発を理由に辞任された。安倍政権の政策には評価できる点もできない点もあったが、それでも長期に亘り国民の支持を得続けたという点だけでも、最高レベルの政治家であり総理大臣であったことは間違いない。まずは、「お疲れさまでした。当面は健康の回復に専念してほしい。」とねぎらいたい。もちろん、政治的主張が異なることから評価しない人もいるのは当然だろう。だが、国民が与えてきた支持をまるでなかったもののように扱うことについては、大きな疑問を感じる。

 

 既に多くの人たちがツイッター等で書いているし、私も以前より何度も触れてきた内容だが、安倍総理ほど国外の評価と国内(特にマスコミ)の評価が異なる人はいないだろう。それはある意味で理不尽なほどの難癖を、マスコミと野党から叩きつけられ続けたという一点において説明できる。その中で、過去最長の在任期間を続けてきたのだから、相当に強い信念と精神力があったものと想像する。普通の人にはとてもでは耐えられないような誹謗中傷によくここまで我慢し続けてきたと思う。志半ばで辞任せざるを得ないことの真の意味での無念さは、本人以外ではわからないだろう。

 そして、それを権力チェックのための当然のことと振る舞うマスコミの下劣さには、相変わらず吐き気すら催さざるを得ない。加えて、そのマスコミが作り上げた風潮に疑問持たずに追随する何人かの野党議員の反応も唾棄に値する。本当に、今のメディアに巣くう仁義も敬意もないような状況には目を覆わんばかりである。かつて、政局はメディアが作り出してきたという自負が今のメディア首脳にはあるのだろうが、それが逆に頻繁にトップが変わる不安定で世界に貢献できない弱い日本を作り出してきた。それでも経済成長により日本のプレゼンスが上がっていたため問題にならなかったが、メディアは国のためには何の役にも立たないということを証明していると思う。彼らは一時の人気取りのためには貢献するが、基本的に恐ろしいものには手が出せない、叩ける相手だけを叩くチキンである。中国で行われているジェノサイドには目をつぶり、自分に被害の及ばない日本という狭い枠の中で公人である総理大臣を叩く。それも、明確な非があるものではなく、憶測と予断と妄想によりそれを延々と続けるのだ。

 

 それは集団リンチと呼んでもよいような執拗さで、しかも付託もされていない国民の代表を騙るおこがましさ。個人的に記者やメディア関係の人たちに知人もいるが、個人としては良い人であっても集団としての下劣さは隠しきれない。この安倍総理の辞任劇において、その本性が赤裸々に露呈されてしまったように思う。

 もう20年以上前から、大手新聞社記者たちの傲慢な態度と不遜な言動は大嫌いであったが、今考えるに最も改革しなければならないのは、政治でも官僚でも産業界でもなく、メディアであるという気持ちを強く抱くに至った。彼らこそが日本社会に巣くう悪しき癌の一つであり、それが改められない限りにおいて日本社会は良くならないだろうという意を強くした。日本は政治が三流と呼ばれてきたが、少なくとも長期政権であった安倍政権時には国際的評価は過去と比べ大きく向上し、むしろアメリカや欧州との仲を取り持ち、TPP等他国籍の枠組みをつくり、指導力を発揮した点において一流に近づいていたのではないか。もちろん、かつて一流と呼ばれた経済は見る影もなく影響力を落としたが、その最大の理由は韓国や中国との産業構造のバッティングにある。

 それを解消するためには、中国や韓国とは産業的に争わなければならなかったが、様々な理由より日本は部品製造に特化する方向で生き残りを図ってきた。こうした浮き沈みは世の常ではあるが、一貫してレベルが低いままなのは日本のメディアである。アメリカが進めているデカップリングについても、相当前より着実に進んでいたものを大して報道することもなく、中国という独裁国家における人権を蹂躙し、他国を侵略するような横暴には触れず。それでどのような矜持で自らの姿勢を誇ろうというのであろうか。

 

 私が思うに、現在のメディア側(特に左派)の人たちには国家の形が見えていない、あるいは見ないようにしているのではないかと思う。観念的な世界観はあるものの、そこにはリアリティがない。あたかも幻想の中を泳いでいる。口で良いことはいくらでも言えるが、それを実現するには10倍以上の困難を引き受ける度量と努力が必要である。私は、芸術分野における評論家と制作者には大きな違いがあると思っている。もちろん芸術家にもいろいろあるので全ての制作者が優れているというつもりはないが、社会的に評価されていなくても新しいものを作り出す人の価値は、それを評論する人たちよりもずっと重いと考える。それだけ、モノを作り出し、実行し、人々に提供するということは困難があるものである。

 評論にも多くの知識と能力が必要であるのは事実だが、あくまでそれは他者の行いを論じているに過ぎない。誤解を恐れずに言えば、他者のふんどしで相撲を取っているのである。評論家に価値がないわけではないが、評論家は制作者や制作そのものに従属した存在なのだ。

 

 そして、この関係はメディアにも言える。メディアはその情報を生み出す何かに依存しながら生きている。たとえが正しいとは言えないが、人とウイルスの関係に似ているようにも感じる。私は記者やメディアなどよりも、現実の政治を行う政治家の方を間違いなく尊敬する。政治家にもいろいろといるので、尊敬に値しない人も少なからずいるが、それでも政権という重責を担ってきた人には一定の敬意を払いたいと思う(総理在任時においてのみだが)。それは鳩山元首相であっても同じである。彼のことは総理になる前より全く評価していなかったし、財政当時から辞任後も批判し続けているが、それでも在職時に受けたプレッシャーが相当のものであったと思う。少なくとも、彼の方が大手メディア所属に胡坐をかきながら政権批判のみを行っている記者などよりはずっと素晴らしい。

 

 繰り返しになるが、日本社会をよくするためには最低レベルのメディアの質が変化することが最も近道であろうという気持ちを強くするに至った昨日今日であった。

中国は食糧危機に陥るか

 中国で、贅沢禁止令が再び出されたことに波紋が広がっている(習近平主席が突然の「贅沢禁止令」 権力闘争への発展あるか(NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース)。これを対米方針に関係する権力闘争の一部としてみる意見もあるが、それ以上に中国の食糧事情が切迫し始めたと取る向きもある(中国による「日本の米」買い占めが現実味…食糧消費大国の中国で食糧不足が深刻化)。どうやら、外食の際には人数-1までしか料理を注文できないと言うほどの徹底ぶりという情報もある。食べ残しをなくすという厳しい内容と言えるだろう(習氏、食べ残し禁止大号令「コメ一粒ずつに農民の苦労」…コロナ・米中対立で食料輸入に不安 : 国際 : ニュース : 読売新聞オンライン)。従来より、来客に対してではあるが残るくらいに提供するのが中国の伝統であり、それを否定するような支持となっている。もちろん、無駄な残飯を無くしていくこと自体は悪い話ではないが、規制をかける方法論がどのようになるかで中国人民の不安や不満も変わってくるだろう。

 事実としてブラジルから大量の穀物を輸入し、アメリカからの買い付けも増加しており、程度はともかくとしても余裕がなくなりつつあるのは間違いない。昨年よりアフリカ豚コレラの影響で3割以上の豚が処分されたとの報道もあり(中国政府はもっと少なく発表しているが、実際に豚肉価格はかなり上昇している)、中国人の食卓には少なからぬ影響が出ている。今回も食糧価格が1年近く上昇し続けていることへの対応であろう。

 こうした憶測に対し、人民網は当然危機を否定する(世界の穀物生産大国が輸出を中止、中国は食糧危機に陥る?--人民網日本語版--人民日報)。しかし、中国の場合には否定するほどにそれが重要なポイントであることを示してしまう癖があり、余裕がなくなりつつあると見るのが正しいと思う(食糧危機発生か? 中国当局、各省に食糧増産を命令 大豆など輸入増)。もちろん、急に食糧不足で黄巾の乱が生じるというはずもないのだが。

 

 現在、中国国内では数多くの問題が生じている。既に触れたアフリカ豚コレラの蔓延から、新型コロナに蝗害(北部と南部で生じているが、アフリカやインドのものとはまた別)、さらには今年に入っての広範囲にわたる洪水により穀倉地帯が大きな被害を受けている(中国「食べ残し禁止令」は今秋の食料危機への注意報 洪水、バッタ、アフリカ豚コレラで食料生産が大打撃(1/3) | JBpress(Japan Business Press))。一部には王朝末期に生じる天変地異と疫病のパターンとも言われ、ソ連と同じように建国72年(2021年)で崩壊するのではとの楽観的な予想もあるが、私はそれほど容易には崩壊しないと見ている。少し前より第二の長征ともいえるような農村回帰を謳い始めている(上山下郷運動 - Wikipedia)が、徐々に中国の経済成長が困難になってくることを意識している故の施策であろう。

 現在の習近平体制は、ある意味で中国共産党政権を現状のまま生き延びさせる唯一に近い方法論であり、どれほど批判されようとも目的を変えない限り変化しようがない。仮に習近平体制が打倒され、新たな政権が始まったとして(さらには一時的に西側諸国と融和的に振る舞ったとして)も、共産党体制が変わらない限りにおいて方向性に変更が生じることもないだろう。これまではパイの拡大により圧政はあっても中国人民を満足させてきたが、今後はそれが徐々に困難になっていく。食糧問題もその文脈の中にある。

 

 さて、アメリカと表向き敵対している中国は二つの意味でアメリカに依存している。一つは金融面。ドルに人民元が取って代わるという予防は抱き続けているだろうが、現状ではそこに至るにはまだまだ道のりが遠い。エネルギーと食糧の決済の大部分はドルのままであり、容易に変更はない。もちろん中国と大きな経済的互換関係に至っているアメリカは、部分的なデカップリングを進めているものの、こちらも一足飛びに完全な分離を果たせない。

 だが、中国も一部の穀物(主に大豆やトウモロコシ)の自給率は大幅に低く、その供給をアメリカを中心とした外国に依存する。特に畜産業のエサ問題は深刻である。要するに、最低限の食料までがすぐに不足することはないものの、舌の肥え始めた中国人民を満足させるのは難しい。カロリーベースでは問題なくとも、不満が高まれば共産党政権に対する批判が噴出してしまう。特に、人民解放軍の兵士たちがきちんと食べられるかどうかが大きなポイントではないか。

 

 中国の戦略は、深謀遠慮というよりは場当たり的だが決して諦めない執念深さが特徴である。長い時間をかけて目的に到達する。これは、上意下達が可能な国家体制に加えて、住民の不満を押し込められるだけの監視圧力や暴力装置を持っていることにより成立する。だが悲しいかな、食糧に関しては絶対的な力をアメリカが持っている。中国の抵抗を含めて紆余曲折はあるだろうが、中国が食糧危機に陥るかどうかは、アメリカ次第ではないか。ただ、それこそ武力による米中戦争の引き金になりかねない行為であるので、そのトリガーが引かれるとは思わないが。