Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

体罰

 少し旧聞にはなるが、日本を代表するトランぺッターの日野皓正氏が中学生の悪ふざけにビンタを用いたことが少々議論(http://www.huffingtonpost.jp/2017/09/04/why-it-is-wrong_a_23196624/http://rocketnews24.com/2017/08/31/948815/)となっていた。私は積極的な体罰容認派ではないし、自分だけでなく人様の子供たちにも用いたことはない。だが、それでも時と場所と相手によっては必要なケースがあるとは考えている。人間関係とはhン等に様々なパターンがあり、全てが理想通りに行く訳がない。体罰を用いない方が良いという考えには賛同するが、それと体罰を一切なくすというのは同じではないという認識を持つべきだと思う。体罰をすべて悪とするのは、いじめ根絶やヤクザ撲滅、あるいは北朝鮮と全て話し合いで問題を解決しよう、というのと同じくらい夢見がちでお花畑な考え方だと私は考える。

 社会では常識の通じない人間が少数ではあるが存在する。特に学生の場合には、相手が多くの人が賛同する常識を対象が弁えているか否かという観点が問題となる。それを体罰を用いずに理解させるのが重要であることはそのとおりだ。野生動物が自衛のためあるいは食糧確保のために人間を襲うケースを考えよう。その時、動物保護のために人は武器を持たずに接するべきなのだろうか。武器による威嚇をすることで不用意な接触を招かないようにするのも有効な対処法であると考える人は多いだろう。当然、相手が動物と人間では状況が異なると言われそうだが、同じ認識や理解を持たないとなればそれを認識させるまでの間(あくまで限定的)は何らかのショック療法を必要とするときもある。

 体罰をそのように上手く利用できるのかという別の問題もあるが、結局罰せられないと考えるからこそ付け上がる存在は世の中には少なくない。話してわからせるというのは、ある意味非常に高等な技術であり詐欺師や扇動者にも近い力を付けなければ、解らない者を会話だけで誘導できる訳ではない。つい最近も福岡で学生が講師を足蹴にしたという事件があり、関係した学生が逮捕されていた。
 逮捕そのものは直接的な体罰ではないが、社会的に言えば体罰以上の罰に該当する。個人的な印象では、体罰という暴力は認めないが逮捕というより強力な罰則は認める。世の中で一定以上の力を有する体罰排除論者の動きはそのように読み解ける。

 話を少し変えよう。さて、教育や躾において「怒る」のではなく「叱る」べきであるという言葉は良く耳にする。私自身そう思うし、そうすべくやってきたつもりである。だが、ゲリラに対して騎士道や武士道が映画のように勝てないのが実際であり、自分を縛るルールや制限が多いほどに勝負には負けやすい。漫画や小説ではそれを覆すことが爽快さを生み出す要因となるが、そう甘くないことは誰もが知っているであろう。だからこそ、人は社会の中にルールと集団による強制力(法とそれを執行する警察権力や軍隊)を設置するのである。

 常識は一つのルールであり、その規範が有効に機能している場合においては、体罰を用いることなく説得することが可能であろう。だが、その規範を明らかに逸脱しているのではないかと思われるケースは少なくない。あるいは、規範そのものをきちんと理解・認識していないということもある。体罰をしなくて良い社会が理想であるのは言うまでもないが、そのためにはそれを有効足らしめる共通認識・理解が無ければならない。ルールから逸脱すればするほどに、言葉だけでは説得できない状態になっていく。
 大人社会でも、実はこうしたルールが通用しない人たちに対しては、なるべく接触しない・近づかないという対応をして過ごしている人は多い。例えば、今回の北朝鮮の核実験やICBM発射についても、「お金を渡して日本を攻撃しないようにしてもらおう」とか「相手のことも考えよう」など、北朝鮮の行動を容認するような言論を発する人がいる。

 一つには、話し合えば必ず誰とでもわかり合えるという、実は非常に自分本位な考え方が根底にあると私は思う。確かに世界では貿易についての多くの交渉事が行われ、それは間違いなく話し合いにより行われている。だが、そこにはメリットとデメリットを交えた妥協が介在している。要するに落としどころを探るというお互いのメリットを追求する過程が存在している。
 だが、そこに譲れない一線があれば日本の調査捕鯨や、核廃絶に関する会議のように話し合いでまとまらないものはいくらでもある。お互いの文化の違いに基づく根本的な認識の差や、社会体制とうによる譲れないラインは話し合いでは分かり合えない。損得勘定により妥協が成立することはあるが、それは個人や国家における核心的な内容ではないことが多い。少なくとも北朝鮮問題が現状に及び、シールズのメンバーが北朝鮮に行き酒を組み交わして説得したという情報は聞いていない。

 私たちが考えなければならないのは、本来人々はわかり合いづらい存在であることを知るべきなのだ。その上で、解り合いづらい人たちとも上手くやっていくための方法を構築し、あるいはそのためのノウハウを蓄積していく。分かり合えるというのは、お互いの認識上の譲歩を求める行動である。だが、宗教や風習・慣習、あるいはポリシーにわたるまで、世界は人々が理想に思うほど簡単には歩み寄れない。だからこそ、その現実を認識したうえでいきなり理想に飛ぶのではなくて間を埋めていく作業が必要である。

 次に、ルールを逸脱する人は実質的には自らその状況に入っていくことの方が多いのである。周りがそこに追い込むのではなく、環境がそれを導く訳でもない。自分自身が自分に課したルールがそれを導いていく。そして無知がその状態を助長する。状況を知ろうとしないことを「由」とする。偶然許容されてきたことを自分の力だと勘違いする。
 社会はある程度までは自由な振る舞いに対して寛容である。その範囲内に留まっている分には体罰も暴力も必要とはならない。体罰反対派の人たちはこの範囲の事のみを問題としているように私は思う。だが、現実にはそれを逸脱する人が少なからず存在し、その境界線上にいることを楽しんでいたりする。モンスター〇〇などと呼称されるのは、こうした人たちではないか。そして、こうした情報を私たちが頻繁に見かけるのだとすると、社会には許容される範疇をまさに越えようとしている人が少なくはない。
 彼らを言葉で説得できると思うのであればやればよいと考えるが、私にはそんな自信はない。暴力を振るうような学生たちもほぼ同じような立ち位置にいる。それをモンスター○○と同様に切り捨てて警察等の公権力に任せるのか、まだ戻せる可能性があると思い説得以外の方法も活用するのか。

 かつて体罰を容易に振るう先生がいたことは事実である。それを肯定するつもりはない。だが、それを否定したいがために、全ての体罰を否とする風潮には個人的に反論しておきたいと思う。体罰を使わずに済むのであればそれに越したことはない。だが、使い方を誤らなければ体罰にも一定の効果があることはある。もちろんそれは一方的な暴力であってはならないが、その範囲や使い方を考えることは切り捨ててそのことを考えないよりもずっと良いのではないだろうか。
 この話を思うときに、核について一切議論しないという考え方と同じように感じてしまった。持つ持たないではなく、その怖さもきちんと理解するために議論をし、思考することを止めない。原理主義に陥らないことこそが最も理性的ではないかと思うのだ。

儚き小池バブル

 この前の都議会戦から始まった小池劇場は、民進党の崩壊まで加速させたという意味において、少なくとも政治ショーとしてはクライマックスを迎えつつある。私は、かつての民主党(現在崩壊しつつある民進党)にも一定の存在意義はあると考えてきたが、もちろんそれは日本という国家における言論の幅広さを担保するという意味においてである。
 今回の民進党解体劇に関して言えば、小沢黒幕説とか前原テロ説など様々な解説を見られるものの、個人的には細部の動きについてはあまり関心がない。むしろ、実質的な旧守姿勢を変えることのできなかった左翼(マスコミ曰く「リベラル」)と、それを擁護し続けた一部マスコミへが受けるショックについて思いを馳せてしまう。

 自民党一強状態に陥った理由は、民進党の政治能力が低かったことはそのとおりであるが、むしろマスコミがリベラルとして擁護する左派が心地よい夢想状態から抜け出せず、現実路線を一切提唱できなかったことにあるのだと感じている。
 日本が成長している(あるいは国民がそれを感じている)様な時代には、実現しない夢を語ることに賛同する人も多かったであろう。だが今は時代が異なる。日本は単純に努力をすれば成功するという世界には生きていない。その事実を多くの国民が何となくではあっても感じているからこそ、一部の宗教的な左派信奉者以外は離れて行こうとしているのである。

 だが、小池氏が率いる希望の党も実質的には結党時の民主党と大して変わらない状況にあるのも事実であろう。小池氏は、都知事として結果を残すどころか混乱を助長してきたに過ぎない。だが、自民党一強を苦々しく思うマスコミが彼女を持ち上げたことによりこれだけの影響力を得るに至ったのは、まだまだマスコミの力は侮れないものだと感じさせてくれる。
 だが、それもテレビや新聞をまだ信じている世代が選挙権を行使するあと10〜15年くらいではないかと思う。ネットなどを活用した一定以上のリテラシー能力を有する世代は、既にマスコミの煽りでは容易には踊らなくなっているのだから。

 確かにモリカケ問題で一定の成果を見たかもしれないが、もう争点として色褪せかけていることは多くの人も感じているであろう(夢をもう一度と考えるメディアと一部政党はまだ言っているが)。全ては安倍政権一強を崩すための戦略であることは言うまでもない。
 でも本当に安倍一強状態を崩したいのであれば、行うべきは奇策ではなくより説得力のある政策提示であるべきなのだ。それができないということは、政治的には敗北状態にあることでしかない。そして、「リベラル」と呼称される政治勢力には現状その力を有していない。少なくとも多くの国民を信じさせることには成功していない。むしろジリ貧であり、だからこその今回の政治ショーであろう。

 そもそも、小池氏は安倍総理よりも保守的な面の強い政治家でもある。安倍一強崩しの可能性に一瞬歓喜したメディアがそれを持ち上げようと動いたが、それほど時間を置かずとも冷静さを取り戻すだろう。安倍も小池も自分たちの考えとは全く違う政治家なのだということに。既に掌返しの兆候はかなり見え始めている。強いて今後も支持を継続する可能性を考えるとすれば、日本初の女性総理というブランドを追いかけることくらいではないか。
 ちなみに言えば、私は小池氏の政治家としての能力は大して評価はしていない。メディア戦略などは、女性という有利な部分を活用して上手くこなしているようだが、政党を率いるという能力はほとんどないであろう。だが、それができなければ結局のところ政治家としては大成できない(小泉純一郎という稀な例はあるが、それも自民党という盤石の政党内であったからである)。

 既に、若狭議員が今回の政権交代は難しいと発言しているようだが、小池総理の目は今回一気に目指さなければないと思う。少なくとも小池総理という夢が無ければ国民は大きくは動かない。ギリギリまでカードは温存するであろうが、小池氏が総理の夢を見るのであれば今回の出馬は必須だ。だが、都知事を放り出すことになるためこれまた難しいであろう。
 都知事の重要性を卑下するつもりはないが、小池氏は都知事という地位で満足すべきだと思う。都議会圧勝という一時の風が彼女に過分な欲を抱かせたとすれば、ひょっとすると新党バブルの崩壊はかなり早いかもしれない。風を読める彼女は、その時には早々に代表を退くのではないか(都知事に専念するということで)。

 さて、この小池バブルに乗って落とされるのはマスコミであろうか、それとも哀れな政治家たちなのだろうか、あるいは踊り好きな国民か。

NHK

 NHKがネット放送についても課金する方向で検討しており、それに対して高市総務大臣が釘を刺したとのニュースが流れていた(http://www.sankei.com/politics/news/170728/plt1707280050-n1.html)。以前より、NHK職員の高給問題や公共放送の在り方については多くの議論がなされているように思う。NHKはネットにおける放送に対しても受信料を徴収する方向で検討している(http://www.sankei.com/entertainments/news/170725/ent1707250004-n1.html)が、これによればスマホなどでは受信アプリをインストールした段階でその義務が発生するとしているようだ。
 なお、これに関連して現在「受信料体系のあり方について(http://www.nhk.or.jp/keieikikaku/03/shared/pdf/shimon.pdf)」に関する答申(案)に関するパブリックコメントが求められている(8/15まで:http://www.nhk.or.jp/keieikikaku/03/index2.html)。この答申を眺めてみると、インターネット等メディアの広がりを通じて受信料の関して検討しながらも、時代の変化に伴う公共放送の位置づけについては触れていない。要するに、そこを不可侵領域と置きながら以下に安定した財源を得るかについて考えていることがわかる。

 この話を、単純にNHKの傲慢さという論点で考えるのは容易だろう。だが、最も重要なのは情報伝達手法が拡大した現代社会において、公共放送とはどの程度必要なのか、あるいはその際の公共放送に求められる内容や規模は如何ほどなのかという問題であろう。いずれにしろ、現代社会でも何らかの形での公共放送は必要であり、それを維持するために財源が求められると私としては考える。だが、その根本の今の時代に合った公共放送とはどういうものかについてはNHKの検討は触れていない。
 NHKは、現在TVで総合、教育(Eテレ)、BSを2つ、AMラジオが2つ、FMラジオが1つという7つのチャンネルを有している。また関連会社を数多く所有しており、コンテンツ管理を含めて一大情報コングロマリットとも呼べる規模を誇っている。連結売上が7500億を超える規模であり純利益も300億を超えている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%BE%E9%80%81%E5%8D%94%E4%BC%9A)。通信系では民間最大売り上げを誇るフジHDを超えるもので、通信系ランキングとしても6位に該当する(http://www.nikkei.com/markets/ranking/page/?bd=uriage&ba=0&Gcode=65&hm=1)。
 要するに日本最大の放送機関なのだ。公共放送が、日本最大規模である必要があるのかどうかということが、まず最初に検討されるべきではないかと思うのである。一部の人が主張するように、単純にNHKを解体すればよいとは思わないが、公共放送としての意味を考えるとNHKの規模が現状で適切であるかを考えるのは重要である。

 最初に考えるのは、現在NHKが取り扱っている情報の全てを公共放送が担うべきかどうかという問題であろう。視聴率に一喜一憂せず良質な番組を作っていくという意味では、一定の満足度を得ているかもしれない。だが、その考え方は何処までも拡大可能でもある。良質であればよいというものではなく、むしろ必要最小限の公共放送がどういうものであるべきかを考えることが求められる。
 またNHKが、放送技術の発展に寄与しているという意見もあろう。ハイビジョンにしてもその他の技術に関してもNHKがリードしてきた役割はそれなりに大きい。NHKが民営化されれば、こうした技術の発展に寄与しなくなるということは十分考えられる。だが、極論を言えばその部門はNHKになければならないという訳ではない。
 ここで問題としているのは、NHKの役割ではなく公共放送の担うべき範疇である。迂遠な話を書いて申し訳ないが、公共放送たるNHKに必須に番組はどれであり、そのために来着様な規模は何なのかを議論すべきであるということだ。それ以外の部分が必要ならば、その部分はCSやケーブルテレビなどと同じようにペイ・パー・ビュー方式(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC)にすればよい。スクランブルをかけて契約者以外が見れない様にすれば良いのである。

 現在NHK問題で最も重要なポイントは、NHKが担うべき部分とそうでない部分の議論がなされていないことである。もちろん、NHK側からすれば規模が大きいほどに有利な面は多々あろう。だが、それは視聴者側からの要望ではない。そして、極論を言えば朝の連ドラや大河ドラマは公共放送として必須のものとは言えないと私は考える。ニュースのみを報道すれば十分であると言えなくもない。
 公共放送としての必要な部位について、私はこう書いたが様々な異論もあろう。だが、全体を保持したままの受信料確保の議論ではなく、民放も拡充した現在において公共放送として求められる役割は何かという議論をすることは重要ではないか。その中でNHKが担うべき範疇の議論がなされれば、必要なものは必要でその受信料は税方式で集めても良いと思うのである。

 NHKは巨大になり過ぎた。単純にNHKの考え方が気にくわないとか、民営化すべきだというのはたやすい。だが、だからこそ今の時代に合ったNHKの規模やスタイルは何か。そのことを問うべきではないだろうか。

モリカケ

 安倍内閣の支持率が30%を割り込んだ(https://mainichi.jp/articles/20170723/k00/00e/010/231000c)ようである。一部マスコミ(朝日、毎日、文春等)が追及する報道攻勢はあたかもロッキード疑惑かと思わせるようであるが、最終的にこの問題で安倍総理が犯罪者になると考える人はあまりいないだろう。この流れができた最大の要因は、「関係していれば辞任する」といった旨を勢いで発言したことにあり、安倍一強で報道者としての愉悦を味わえなかった一部メディアがこれに飛びついた動きであるように感じている。要するに、「それなら辞任にまで追い込んでやろう」といった執念のような感情が呼び起されたわけだ。
 実際、マスコミの怒涛の様な疑惑連呼の最中に、秘蔵っ子である稲田防衛大臣の軽率な発言も飛び出たこともあり、これまで高い支持率を誇ってきた安倍政権の支持率は急落した。上記のように、私個人としての見立てはモリカケ問題は政権を引きずり落とすようなインパクトはない。もっと言えば、正直なところ行政的な手続きの瑕疵はあったとしてもそれは役所内の問題であり、総理の首に届くような問題にはなり得ない。メディアは、必死にその関連付けを意識させようとしているが、それは自民党内部の闘争を引き起こすことを促している。ご多分に漏れず、石破元大臣が各メディアに登場している。政権を揺さぶるには内部の分裂といった感じであろうか。

 しかしその背景には第二次安倍政権が強すぎると言った暗黙の集合認識がある。その原因の一端は、民進党を含む野党が弱すぎて安倍政権が国政選挙で連勝していることである。国民は無意識のうちにバランスを取ろうとするので、安倍政権が勝ちすぎる状況には微妙な違和感を感じている。これは、好き嫌いの問題ではなく中庸を取ろうとする無意識的な行動だと思う。バランスを取りたいという感情があるにも関わらず、それ以上の民進党の体たらくにより満たされることなく時間が過ぎてきた。
 同時に、政権中枢がどうかはわからないが、長期政権の弊害が与党議員の発言や行動の傲慢さで散見されていることも付随的な要因として考えられるであろう。そのことは、消極的選択として既にメディアなどでも取り上げられている。アベノミクスが、思うほどの効果を国民に感じさせていないということもあると思う。

 だが、民進党政党支持率が全く向上するように見えないように、おそらく政権支持率が低下しても政党支持率の動きは大きく変化しない。個人的な意見を言わせてもらえれば、「都民ファースト」は全国的な政党としては大きな力を持ち得ない。小池百合子氏についても政治的な能力はそれほど高くないと評価している。オリンピック問題でも豊洲問題でも、正直グダグダの結果しか出していないにも関わらず高い支持率を誇っているのは、メディアの応援による部分が大きいと感じる。
 逆に言えば、メディアは未だそれだけの力を保持している。一方で、最終的な敗者はメディアであろう(http://netgeek.biz/archives/99317)という声も出始めた。私もその意見に同意する。主婦層や高齢者はその親和性からリベラル系への傾倒が強く、メディアの報道攻勢の影響を強く受ける。メディア側とすれば、最終的な結果は有耶無耶として疑惑のままに残せればよいのだろうが、徐々にではあるが「モリカケ」もメディアが言うほどの問題ではないという意見が広がり始めるであろう。とすれば、メディア(特に毎日新聞が突出している気がする)の信用度がさらに下がることになると私も感じている。

 逆に気になるのは、メディア側もそのことは意識していないとは思えない。むしろ、そこまでのリスクを負いながらなぜこの報道攻勢をかけるかということがある。今回の報道は「〇〇の疑惑!」というワイドショーが方の報道を新聞が行い、それをテレビが追随する形で行われている。
 これまで新聞が暗に馬鹿にしていたテレビのワイドショー型の報道に舵を切ったのである。そして、メディア支配の総力を挙げて政権を潰しにかかった。何をそんなに追い込まれているのか? それが私としては最も気になっている。特に今こそ、政権基盤が危ういと感じさせるような報道で世の中の認識を塗りつぶしてしまおうという雰囲気がかなり強く匂う。

 一部メディアの努力は以上の通りであるが、個人的な予想であり政権支持率は一時的に20%代半ばまでは下がるかもしれないが、今の状態が続けばおそらく時間をかけて戻していくだろう。それほど時間をかけなくとも、ある程度までは戻るのではないかと見る。別に安倍政権が最高というつもりはないが、それに代わる存在が今は全く見当たらない。民進党議席を伸ばせばよいと思う人が少ないのは、政権支持率を見ればわかる。都民ファーストが選択されたのも次善の策がそこにしかなかったからであろう。
 とは言え、今回の騒動で良かったと思う点がある。それは自民党内の派閥の動きが生まれ始めたからである。政党内野党としての喧々諤々たる議論の方が、国会における民進党との茶番よりはずっと建設的であると感じている。先祖がえりが良いとは思わないが、新しい形で自民党内でそのような議論がなされるきっかけになれば、私はむしろ良かったのではないかと思うのだ。自民党が選挙に強い安倍依存では、これまた国として不味い状況だと思うからである。世界情勢が混迷する現代では、今後もある程度強いリーダーが望まれるのは今後も間違いない。それが生まれるような下地ができれば都合が良い。

 半年から1年後には、新たな事件が起こらなければ「モリカケとは何だったのか?」という報道が見られるようになるのではないかと思う。

保守的なリベラル

 少し前の話ではあるが、サンデーモーニング関口宏氏が、安倍政権の高支持率に対して若者はもっと変化を求めるべきといったコメントをしたことがネット上で話題となっていた(http://news.livedoor.com/article/detail/13187127/)。同時に年代別の政党支持率を見ると若者が自民党を応援しており、年代の高い層が民進党共産党を支持している状況もわかる(http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/2016/news2/20160705-OYT1T50109.html)。昨年度の調査結果で恐縮だが、10代、20代の自民党支持率が他の年齢層よりも高い状況にある。これは、安倍政権の支持率になるとさらに顕著となっている(http://www.sankei.com/premium/news/170124/prm1701240004-n1.htmlhttp://www.blossoms-japan.com/entry/2017/06/19/215426)。

 元来、若者は体制に反抗するのが常であった。それは、権力闘争の一つの形であると言っても良い。持たざる者たちは持つ者たちに反抗するのである。では、今は反抗しない従順な状況なのであろうか。確かに、近年は暴力行為などを試みる数は正直かなり減少しているとは思う。だが、若者が体制に反抗し変化を求めていないかと言えばそんなことはない。それは、若者が体制(あるいは敵視べき持つ者)と認識している存在が一体何なのかと言う問題に行き着くであろう。
 リベラル陣営の人たちやメディアたちは、自分たちが今も反体制であると考えていると見える。だからこそ、支持率の高い「体制」である政権はどんなことをしても引きずり落としたい。あるいは、若者たちに政権に反対するような行動を起こしてほしい。だから、SEALDsなどは実質的な活動内容や説得力以上に持ち上げられた感じも強い。ところが、それ以外の多くの若者たちは、そんなリベラルの(しかも特権階級に見える人たち)こそを抵抗すべき体制と認識しているは思わないだろうか。

 良く出てくる疑問ではあるが、なぜ民進党の支持率が上がらないのか? 様々な意見はあろうが、私はその答えは簡単だと思う。それは現状を変えようとしていないからである。民進党の状況にシンパシーを抱くコアな人たちは既にその支持を行っている。だが、それ以外の状況に応じて支持を変化させる人たちは政党の動きを良く見ているのだ。私が見る限り民進党は実質的に体制維持の施策を次々と繰り出している。例えば、安倍政権が特区による旧来の規制を打ち破ろうとすれば、信じられないことにそれすらに反対する(http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20170602/plt1706021700004-n1.htm)。能力不足で政権の揚げ足を取っているだけという意見もあるだろうが、私にはむしろ改革を行わずに現状を維持するための方策を的確に行っていると見えるのだ。そう考えてみれば、現状維持を獲得るために最も良い方法、自分たちが新しい大胆な施策を提案するのではなく、それを行おうとしている存在の価値を毀損することを愚直に実行している。改革のための政治論争は有耶無耶にされ、変化は停滞し現状が維持される。まさしく狙い通りではないか。
 もちろん、特区など現在行われている全てが正しいと言うつもりはない。現政権でもおかしな施策だと思う内容は数多くあると私は思う。だが、理想を掲げて現代社会を世界情勢の変化等に応じて変えていくという気概や行動は、民進党からは全く見えてはこない。

 「日本は世界で最も成功した社会主義である」という言葉を良く耳にする。世界を見渡すと確かにその通りだと首肯したくなる。日本が完璧で最高だと言うつもりはないが、だからと言って概括すれば悪い国ではない。一部の指標で劣る部分はあっても、総合的に見れば住みやすい良い国だと思う。この意見に同意しない人もいるだろうが、世界を見れば日本は相当に良い国である。この結果は、戦後を通じて団塊の世代などが努力し、生み出してきた理想の社会の一つの形ではないかと思う。もちろん、完璧な成功ではない。だが、社会において完璧なものなどありやしないのは誰もが理解していること。
 既に、戦後体制の中ではかなり優等生的な状況を構築できている。細部における矛盾はまだまだあろう。それを修正していく努力は必要である。だが、この体制は戦後に今の社会を構築してきた人たちに手厚いものでもある。だから、若者たちからすれば高齢者の方が随分と特をしていると考えるだろう。世代間闘争と言う言葉もあるが、既に材を得ている高齢者層と今からそれをしようとする若者たちの間の条件は公平ではない。既得権益を崩す取り組みは、まさに高齢者層や今の体制において利益を享受しているところから、奪おうとする行為に他ならない。

 別に安倍政権が、若者礼賛の施策を取っているというつもりはない。ただ、こうしたものはすべてバランスの上に存在する。若者がこのバランスを変えようとする動きを支持するのは当然の帰結だと言える。民進党が何故小売者の指示が高いのか。それは高齢者層の持っている既得権益を守るような動きをしているからである。
 実際、投票行動を見れば若者よりも高齢者の方が投票率が高い。人口も高齢者の方が多い。だからそうした有権者に媚びた施策が支持されやすいと考えるのはわかりやすい。安倍政権もそうした面はある。政治は全ての世代に向かう必要がある。

 さて、リベラル側からはあたかも特定アジア国家のように現政権を「極右」と呼ぶケースもあるが、これも世界的に見れば随分リベラルな政権だと私は考えている。それに対抗しようとするほどに、リベラルを自称する存在はむしろ左に偏っていく。
 経済政策や社会政策などは、現政権は本来リベラル陣営が提唱して実行すべき内容を次々と繰り出している。唯一、外交政策のみを持って「極右」などとレッテル貼りをするのは多くの国民からすれば、その意見こそが偏っているとみなされるだろう。

 外交面については、世界情勢の変化にどれだけ適切に対応できているかと言う問題がある。20年前と比べれば、日本を取り巻く世界の情勢は大きく変わっている。若者たちはネットなどを駆使してそうした情報に数多く触れている。もちろん一部で突出した認識の者たちもいるが、その程度や行動も世界的に見れば随分と大人しい。空前の売り手市場となっている就職戦線も一翼を担っているであろうが、世界を見る目が現在のリベラルを自称する人たちと若者との間では違うのではないか。
 同じ見方をしている筈と言う幻想が、ある程度歳を取ったリベラル陣営には幻想として残っている。いや、もはやそうであってほしいと願うレベルに来ているのかもしれないが、現実は残酷だ。

 リベラル陣営は、その活動によりこれまで一定以上の地位と権力を握ってきた。その自覚が無いこと(あるいはそれは当たり前の結果だと思っていること)が若者の気持ちに気づけない、若も達の支持を得られない一番の理由だと思う。リベラルは現状を守ろうとする抵抗勢力になっている。もちろん、私も含め同じような境遇にいる人たちにとって、今の社会は比較的居心地が良い。だが、それを将来を見据えてどう変化させるかが問題である。
 リベラルが若者に支持されなくなっている一番の理由、それはリベラルが抵抗勢力であり実質的な保守となっているためである。それが分からない限り、今後も若者層への支持が広がることはないだろう。だが、現状の民進党を見る限り変化へと踏み出すことは出来そうにもないのが、ある意味において非常に残念でもある。

メディア批判と期待

 最近は本当に忙しくなってしまい、ほとんどかけない状態が継続しているが、時間を見つけて少しずつでも書いていきたい。

 さて、近年メディア批判が非常に盛んになっている。私自身、朝日新聞をはじめとするメディアに対する批判的なことは何度も書いてきた。だが、この批判には二つの意味は含まれていると思う。一つには第4の権力とも言われるメディアの有する影響力を前提とした批判。そしてもう一つは、そうは言いながらもメディアから離れられていないことを前提とした批判。多くの場合には前者を根拠とした批判であり、後者についてはメディアが影響力を失えば自然と離れていくといったイメージもあるかもしれない。
 だが、メディアが政争や事件・事故をネタとして消費しているのと同じように、ネットでのメディア批判も基本的に同じ構図ではないかと私は思う。楽に批判できるから、そして批判対象が健在だからこそ出来ている批判なのではないかと言うことだ。

 もちろん、社会の公器を自称するメディアと便所の落書きとも揶揄されたネットの言説を同列に並べることはおかしいかも知れない。報道により利益を得ているものと、憂さ晴らしのために書いているといった内容の差もあろう。だが、かつてフジテレビにて有名なった言葉である「嫌なら見なければよい」と同じようなことが繰り広げられているようにも思うのだ。批判するために見る。近年は「嫌韓」を通り越して「笑韓」や「呆韓」などといった言葉も通り過ぎて行った韓国に対する過激な意見であるが、これもまた消費されるためにある騒動のように見えるのだ。
 実際、韓国メディアの言説が正しいとは思わないし、国際的に繰り広げられるデマゴーグや嘘のレッテル貼りにはきちんと対応しなければならないと思う。それに対して、政府(特に外務省)は効果的ではなかったとも思う。だからこそ、国民の認識が広がったことにより最近国も動き出している面があることは事実だと思う。だが、そうした国と国の関係性については別に一人一人の国民が憤慨して対応しなければならない訳ではない。

 結局は、これらは情報の消費なのだと思う。私たちは、消費できる情報が提供されることを常にどこかに期待し続けているのだ。もちろん、心地よい情報を期待しているという面もある。だが、同時にそれ以上に気楽に批判できる対象を探している。私たちはいつも安定と刺激を追いかけているのだ。
 井戸端の会話のように、同意や共感と、批判することによる刺激を探している。それは、職場においても学校においても常に行われ、探し続けられている。そして、自分(たち)の中においては正義の存在として自分を位置づけるのだ。安定として人の同意(共感)を得て自己存在肯定をし、刺激として何か(誰か)を批判して自分の特殊な立ち位置を自認するのだ。

 こうした行為の全てが悪いとは思わない。全ての事は程度が重要である。軽い愚痴も嫌味も、時に自分自身の平静を保つためには必要であり、そのために小さな社会(コミュニティ)は存在するのだ。それが度を越して社会に悪影響を与えなければ許容されるべきだと私は思う。そして、その範囲は常識として時代とともに少しずつ変わっていく。
 メディアは、既にその大部分を情報を消費されるための存在に変わっている。それはメディアが単純な情報発信ではなく、すでに自己の主張含めた発信者であることを意味していると言っても良い。公平中立などないからこそ、単純情報ではないからこそそうした社会リアクションが生じるのだ。だが、こんなことが言えるのは社会が一定の安定と成功を得たからであって喜ぶべきことなのだろう。
 その上で、メディアは今後もほんの少しの価値ある情報発信者として、同時に大いなる社会的な娯楽情報発信者として期待され続けるのではないか。表向きは批判と言う声に包まれながら。だが、その時の収益モデルがどうなるかは何とも言えないが。

人口減少の質

 人口減少社会の進展は、新聞から各種ニュースまで数多くの場面で取り上げられる現代日本における重大な関心事の一つである。しかし、残念ながら解決のための決定的な処方箋は未だ見出されていない。だからこそ、様々な識者からメディアまで百家争鳴の状況にあるとも言える。
 出生率を向上させる。机上で数値を変えるのは非常に容易であるはずのそれではあるが、現実にはなかなか思い通りに変化するものではない。希望としては、低迷している出産率(1.4程度)が劇的に上昇(アメリカ並みの2.1程度)する未来を目指したいところだ。それによりようやく人口減少に対する細やかな光が見えてくるのだから。

 しかし、現実には既に長く少子化時代が続いており、バブル崩壊後に企業の採用抑制が生み出した雇用バランスの崩壊と同様に、人口ピラミッドを見てもわかる通り生産年齢人口の世代的な低下は今からでは回復できない。もちろん、そもそも出産率を向上させる方策に目途など全く立ってない状態でいる。
 出生率が上がらないのであれば移民によりそれをカバーしようというのが経済界が主導する一つの考えだが、現状と同じ労働者数を維持し続けるためには常に移民を受け入れ続けて減少分を補てんするということになる。それはすなわちこれまでの日本人が減少し、新しい日本人(あるいは日本に住む外国人)が増えていくという事。残念ながら、日本というある種独特な同一性を有する社会がこうした変化に耐えうるかというと、私はなかなかに難しいと見ている。実際、世論の動きも概ね私の見立てと変わらないだろう。

 ここまで重大な関心事になっているのは、人口減少問題は総体としての国力の問題につながるからである。個人の幸福はお金のみで測れるものではないが、それでも多くの収入があることが悪い訳ではない。個人レベルのお金の事情を仮に国家の生産力として考えると、国民一人あたりの生産力(GDP)として見ることもできる。それ自体が日本は非常に低いと問題にされている。だが、国力という面から見れば一人当たりGDP×人口により導かれるGDPそのものが意味を持ってくる。
 一人当たりGDPは生産額であり、人口も数で示される。両者とも計測できる量である。普通に考えると一人当たりGDPを向上させた方が良いのは間違いないことである。だが、それは物価が上がり続ければ自然に増加していくものでもある。生活のしやすさという指標で見れば、単純に数字が増加すればそれが良いのかと疑問を抱く面もある。
 今の日本で問題とされているのは何年もGDPが増加しない状況が続いていることであり、緩やかな成長が継続していないことではあるが、それは数としての人口の減少という根本的問題と、物価の上昇が無いという二つの問題が複合されて生み出されている。

 さて、上記の他にも保育所問題をはじめ、後継者不足による廃業問題や、社会環境の変化に伴う屁かもここには関係してくるであろう。そもそも少子化とは先進国ではどこでも起こっている問題である。人々は、豊かになり自由になるほどに個人の時間を大切にするようになる。少子化の一番の原因は婚姻数の低下であり、それはすなわち自分(の時間)を大切にすることから生まれている。
 もちろん、自分(の時間)を大切にすることが豊かになって初めて発生する概念でないのは言うまでもない。だが、(ある程度)一人で生きていけるという逃げ道が婚姻を阻む小さな、しかし確実な障害となっているのは多くの人も感じているのではなだろうか。昔が良かったかと問われれば、おそらく今の少子化に悩んでいる時代の方が個人レベルでは幸せである。家に縛られ、家族に拘束され、それが当たり前であった時代からすれば、現代は何と自由な時代であろうか。
 もちろん、金銭的な理由でそれが難しいという話は私も良く知っている。子供の教育費すら出せないという問題は、相対的貧困率としてこれまたてあちこちで問題とされている。それが発生する理由を少し考えて見なければならない。

 さて、かなり話が別の方向に行ってしまったが、現在日本において人口減少問題は「量」の問題として認識されている感じが強い。だが、私はもっとも議論すべきは今後の日本を支える子供たちの質の向上ではないかと考える。子供を商品のように「質」と捉えることに抵抗を示す人もいるだろうが、労働生産性の議論でもあるように質の高い社会を生み出していくことは求められる。
 子供の質を問題にすると今度は高い教育レベルが話題になり得るが、それ以上に精神的な質が重要であろうと考えている。これまで数多くの高学力の人たちとも接してきたが、その学力を活かせるかどうかは精神的な(性格も含めて)質にかかっている。確かに、一部で頭抜けた能力を有する人は精神的な質を問われにくいこともある。だが、今後の人口が減少する日本社会では、子供の数が少なくなるからこそ子供たちが獲得すべき「質」、そして大人たちが社会に残していく「質」、その両方が重要になると思う。

 ここで優生思想などを説いているのではない。だが現代の子供たちは、果たして精神的に質の高い状態に至れるような状況にいるのだろうか。現代社会をすべて否定すればよいというものではないが、私たちが当たり前と思っている多くの事は、論理的な必然性ではなく過去とのつながりの中から惰性によりもたらされている。
 私たちが人口減少社会と真っ向から向き合うとするならば、非常に困難な出産率の劇的な回復や、文化的混乱を招きかねない大規模移民の受け入れなどよりも、これから生まれてくる子供たちが物質的にも精神的にも、高いレベルに達せられるような社会基盤やシステムを準備しておくことではないだろうか。
 少子化問題やそれに伴う人口減少問題は、確かに現時点の常識からすれば良い状態とは言えないかもしれない。だが、物事の良し悪しはその判断を下す人が決める。そして未来のそれを決めるのは私たち大人ではない。私たちが考えるべきなのは、人口減少社会を回避すべき「量」の問題よりも人口減少社会と上手く付き合って行ける「質」についてではないだろうか。

自動翻訳の時代

 少し前にウエアラブル翻訳機のili(イリー:http://iamili.com/ja/)が発表された。どの様なものかはサイトやニュースを見ていただきたいし、現時点で実用にどこまで耐え得るかは未知数だが、即時翻訳可能な機器が登場したことについては非常大きな意義を有していると思う。スタートは英語・中国語・日本語の対応ではあるが、その後も対応言語は増えていくようである(http://robotstart.info/2017/01/31/ili-press.html)。今年の6月から法人向けサービスが開始されるそうだが、その後も性能向上が図られれば外国語を話せなくともコミュニケ―ションが可能になる時代は近いかもしれない。
 最近は、グーグル翻訳もディープラーニングの成果か翻訳精度が飛躍的に高まりつつある。ほんの数年前には、翻訳はしてくれるがよくわからない文章で全面的に手直しを必要とするため、「役に立たないなあ(実際にはそれでも役には立っている)」といったレベルであったものが格段の進歩を遂げている。
 おそらく数年後には、かなり多くの言語同士の基本的な自動翻訳は実現するのではないか。もちろん、言語は非常に複雑であり、深い部分でのコミュニケーションを行う場合にはこのような機器では十分でない。専門用語や俗語などについては、容易に対応できない可能性も高い。だが、基礎的な部分が一気に飛び越えられるとすれば、これまでとは全く異なったやり取りが可能になるであろう。

 機械や電子頭脳(AI)が発展することにより、様々な仕事が取って代わられることについては既に数多くの人が警告し、想像し、問題にされてきている。そこで失われるのはホワイトカラーと呼称される人たちも多く含まれており、全てを取っては変わられなくとも業務の大部分を肩代わりされるのではないかと、弁護士や医師までが対象とされているのはメディアが既に取り上げている。
 教師はまだ取って代わられる存在としての上位にはいないようだが、これも教育方法の変化によっては絶対的なものとは言えない。そして、人々は今までとは異なる仕事を探し回ることになる。もちろん、新たな仕事は生まれてくるであろう。ただ、それが十分な報酬を得られるものになるかどうかは別問題であるが。

 さて、話を元に戻す。自動翻訳の普及は私たちの生活をどう変えるであろうか。まだ、音声レベルのみの対応イメージであるが、そう遠くない時期に今度は目に飛び込んでくる言葉も自動的に翻訳してくれる眼鏡が生まれても不思議ではない。OCR(光学文字認識https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%97%E8%AA%8D%E8%AD%98)等の発展も同様にかなり進んでいるため、技術を生み出すための基礎的な部分は満たされている。
 イヤホン型で、耳に入ってくる言葉を自動的に翻訳してくれる機器もそのうち生まれてくるかもしれない。昔のSFの世界ではないが、こうした機能を一つにしてコミュニケーションをサポートしてくれるサポート機器が生まれるということもあろう。
 そうなれば、多少のタイムラグはあっても世界中のコミュニケーションは大きく変化するだろう。一つには、言葉ではない文化や風習の違いによる問題が今以上にクローズアップされてくること。言語的な障壁があったからこそ違いがダイレクトにコミュニケーション障害を引き起こさなかったものが、壁が取り除かれることでその問題に直面せざるを得なくなることがある。
 要するに、私たちが学ぶものは言語そのものではなく文化や風習に変化していく。言葉を教えていた人たちは、民族や国ごとに違う仕来たりや作法を他の人たちに伝え始める。それらについても基本的な部分は危機がフォローすることから、マイナーでかつこれまではそれほど問題とされてこなかったようなものが取り上げられ始める。
 そのことは、言語という違いが取り払われると自分たちのアイデンティティを今まで以上に認識し始めることからも生じるのだと思う。オリジナルな部分をどれだけ見せられるのか。文化伝道師がそこを目指さなくとも、世界は今まで以上に独自性を求め始めると考える。

 言葉が分かるから今までより相手のことを理解できる。だが、理解できるからと言って相手に自分の方から歩み寄る訳ではない。外国人とのコミュニケーションを行う場合には、自分の国の特色や歴史・文化を知っていることが重要とはよく聞く話である。まずはお互いのバックボーンを理解する。そこからようやく交渉が始まる。
 問題は、交渉したい、分かり合いたいという強い動機を持っている者にとっては、言語の壁が取り払われることに意義があるが、その意思を持たないものにとっては何も変わらないということである。そして、多くのマジョリティは自分たちの現状を維持することが最優先なのだ。他者(特に文化の異なる人たちに)に歩み寄るべき動機を有していない。自動翻訳により意図せず近付けば、離れるための理由を探すことすらあるだろう。

 独自性を求めるということは、言葉や宗教以外にも排他的になりやすいということがある。既に世界中で移民反対運動が大きな力を持ちつつあるが、それは自分たちや自分の国のアイデンティティを脅かされているという切実な願いが根底に存在することがあるだろう。それは移民によりできた国であっても同じことで、徐々に変わるものは許容できても急激なそれは認められない。
 人々はかつて代わり合えれば一緒にやれると夢を見てきた。だが、それは言葉が通じるということだけでは不足である。価値観をある程度同じにしなければそれは成立しない。その価値観の寄り添いが、自動翻訳の普及によりもし遅れるとすれば皮肉なことかもしれない。

メディアと世間の間隔

 第4の権力であるとか、身内に甘いとか、権力の監視者という立場を超えて世論誘導を行っているとか、巷でマスコミを叩く声は確かにかなり多い。実際、私自身かつてマスコミの横柄な態度に辟易し、必要なキーワドを切り取り報道するための誘導尋問に嫌悪感を強く受けたこともある。だが、同時に最近は疎遠になったが記者の友人もいて、個人としては決して悪い人ではなく知識もユーモアも豊富な楽しい人物であった。
 私自身、一部マスコミの偏執的ではないかと思うほどの行動原理には失望を超えた絶望的なイメージを抱いたりもするし、その燃え盛るような少し誤っているのではないかと思う情熱はどこから来るのかと気になったりもする。だが最も大きな問題は、マスコミが自身が信じていることを頑張るほどに、サイレントマジョリティたる世間との意見や認識の乖離が益々広がっていくのではないかと感じていることにある。
 もちろんすべてのメディア(マスコミ)が同じ方向を向いているわけではない。右も左も、大きな政府を指向するものも小さな政府を求めるものもメディア自身が百花繚乱でるのは知っている。だから、今私がイメージしているものは確かに特定の既存マスコミと考えてもらっても良い。だが、同様のことは大小こそあれどマスコミ・メディア業界全体に言えると個人的には考えている。考えてもみよう。新聞もテレビも自身の影響力の低下をまさに嘆いているではないか。

 ここでは比較的わかりやすいと思う一例をあげてみよう。昔の55体制時と同じかどうかはわからない。だが、民進党にしても政権に批判的なメディアにしても、安倍政権を叩くボルテージが上がり過ぎて周りが見えなくなっているようにすら見える。そこには、彼らなりの絶望感でありルサンチマンが存在しているのではないかと勘繰ってしまうのだ。もう少し具体的に言えば、これまで全力を挙げて積み重ねてきた世論を誘導する力とそれに基づき構築された信用が、ネットの広がりと共に瓦解し始めているという緩やかな現実と今後に見える潜在的な恐怖感との戦いでもある。
 この戦いは、敵があってないようなもの。なぜなら社会認識や私たちを取り巻く環境が変化したから生じたものであり、政敵や主義主張を異にする存在の状況が劇的に変化したわけではないことがその理由の一つ。もちろん、安倍政権も一期目と比べて大きく基盤が安定し、安易なぼろを出さなくなっているため、世論を上手く煽れないというのもある。

 本来は、環境や状況の変化に伴い自分たちこそが変わらなければならないのだが、それが上手く出来ない(どちらかといえば、自ら過去に縛られ、変えようと考えない)からこそ何とも言えない居心地の悪さを感じているのであろう。そして、政権側に容易につけ入る隙がないからこそ必死になって、自爆攻撃も厭わず安倍政権の失態を引き出そうと必死になっている。あたかも、難攻不落の賞金首を取り合い争うハンターのように。さらに言えば、その敵は基本に専守防衛で強引な攻撃は仕掛けられないという非対称の状況を利用して。
 そんな状況をサイレントマジョリティは、生暖かく見ている。考えてみれば、安倍政権の支持率は過去の政権を見ても突出して高く安定している。もちろん、ライバルとなるような存在がいないことが一番の理由であることは間違いない。安倍政権が全て優れた政策を推し進めているわけではない。特に経済政策はもっと大きな改善の余地があると私は思う。
 だが、少なくとも少数の思い込みのある人を除けば現状の安定した政権は安定感において信頼を得ている。それを代替案もないままにあらゆる手段を使って引きずり降ろそうという行為を、少なくとも状況を見ているサイレントマジョリティはどう思うのであろうか。

 その状況はジャパンディスカウントに明け暮れるどこかの国の行動と似ている。相手を低く貶めれば、自分たちの価値が相対的に上がるというのは、限られた範囲内では成立する論理だ。だが、相対的に引き上げられる存在が自分たちになるというのは、相当に甘い認識ではないか。
 そして、こうした甘い行動が現状では自らの価値をさらに毀損していると私は思う。信用を積み重ねる行為とは全く逆の行動。少し考えればわかるにも関わらず、それをできない状況。
 それは気が付けば大きくなっていた自らの失敗を、起死回生とばかりに挽回しようと狙っている。言葉は違うが、一気に逆転するというギャンブルにチャレンジしている行動である。だが仮に、メディアが安倍政権の大きな失態を発見したとしよう。もちろん、その情報はセンセーショナルに取り上げられる。何せ取り上げるのはメディア自身なのだ。だが、それでも社会全体としてメディアの信用が大きく回復することはないと私は断言する。
 なぜなら、そこまでの過程も全て国民は知っているからである。膨大な情報の流れに忘れられそうな情報も、今の時代では直ぐに発見されてしまう。実は近年話題の「忘れられる権利」を誰よりも欲しているのは、大きな傷を脛に持つメディアそのものではないかと邪推させてくれる。
 マスコミは、正論で押し通し切れないからスキャンダルでも何でも何か功を挙げようと必死になっている。それは仲間内からは正しく良い行動と評価されるかもしれないが、第三者的な立場からは全く異なる風景に見えるであろう。サイレントマジョリティはもう潜在的な仲間や支持者ではない。その支持を取り付けるために必要な行動や姿勢は、今行っているものと違うと考えられないのであろうか。

 少なくとも現状の姿勢を続ける限り、メディアもそして民進党も大きな支持を得られるとは思わない。反原発も沖縄基地問題も使い方によればもっと政治的に利用できるテーマだとは思うが、見ている方向を間違っているので大きな力を得ることはできていない。
 多くの業界は環境の変化により大きな苦難を経験した。そして、それを乗り越える苦しみを潜り抜け、あるいは今のその過程にある。メディア業界がそれを受けずに済む理由はどこにもない。その覚悟を抱き、現状を正しく認識・理解できない限り、メディアと世間の乖離は広がりこそすれ狭まることはないだろう。

共感を引き出す能力

 能力が高くてその上性格も良い。理想の上司と評価を受ける人はまさにそんな感じの人であろう。だが、「理想」という枕詞が付く様に、一般的に両者とも兼ね備えている人はそれほど多くはない。ほどほどに能力があり、ほどほどに良い性格の人は一定以上の割合で存在するが、ほどほどに良いというのは悪い面も散見されるということと同義である。
 さて、例えば極論として「能力は抜群に高いが性格は悪い」と「能力は低いが性格が非常に良い」といった事例の比較をしてみよう。例えば、私が友人としてどちらと付き合いたいかと考えると、普段会うだけであれば性格の良い友人を選びたいと思う。一方で、何か刺激的な遊びをするときには能力が高い友人の方が、より面白いことができそうな気もする。
 このあたりに関しては、自分の立ち位置がどのあたりにあるか(アクティブかポジティブか)によって少し異なってくる。もう一つは、趣味や趣向が合うかどうかもあるだろう。自分で自身の適切な評価を下すことは難しいが、TPO や相性というものは非常に大きなものとなってくる。だからあくまで一般論としてではあるが、両者を比較すれば自分がゆっくりと安息を取りたい時には、すなわち刺激を受けたくない時には性格の良い友人、そして何か非日常的な冒険を選択したい時には能力の高い友人を選ぶ。そして明確な意識や目的としての認識が小さい時には、自分と同質の性格を有する友人を選ぶのではないかと思う。

 類は友を呼ぶ。そんな言葉が世の中にはあるが、基本的に人は自分と同質性の高い人同士で近付きたがる。ただし、それは能力が高い者同士や性格が似ている者同士とは限らない。趣味の合う者同士というのもあるし、時には長い時間共に過ごしてきた(あたかも幼馴染のように)関係性が重要となることもあるだろう。
 それらはストレスを自分に与えない、または自分が許容するストレス範囲内での付き合いを選択するというものだと思う。意識が無ければもっともストレスが少なくなる者同士、意識した場合にはそのストレスが何らかの刺激や快楽と繋がる関係において許容される。
 もちろん、日常社会においては常に心地よい者同士で一緒にいられるわけではない。家庭でも、近所づきあいでも、学校でも、そして職場でも。私たちは自分と波長が十分合わない人たちとの関係性を常に模索し続けている。無能だが性格の良い人は基本的に刺激のない存在として、有能だが性格の悪い人間は刺激の強い存在として認識し、それが自分にとって心地よくなる場合に交流を図ることとなる。

 時には意識的に、自分と波長の合わない人を選択するようなケースもあるだろう。それが慈愛の心によるものなのか、あるいは自分への贖罪として働くものかはわからないが、自分に敢えてストレスをかけることを是とする人も確かにいるだろう。だが、大部分は無意識のうちにその時点での自分にとって楽な人間と付き合いたがる。
 そもそも能力と性格は対立概念ではない。両者を高いレベルで有する者もいれば、双方に欠ける者もある。両者を有するものには人は近いづいて行き、持たざる者からは人は基本的に遠ざかる。そう考えるのはたやすい。だが、現実を見ると能力についても性格に関しても単純に良い悪いでは表し切れない部分がある。先ほども書いてきたが、能力にしても性格にしても自分と近い存在の方がストレスになりにくいというのはあるだろう。共感性(シンパシー:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F)と呼べばいいのだろうが、このあたりの反応は概ね直感により導かれる。

 問題は、これらの直感は関係する二者において同様ではないということではないか。AとBが相手をどのように評価するか。単純に両者が等しく相手に対してシンパシーを感じれば対等な関係性が存在する。しかし、AがBに対して感じるそれと、BがAに対して感じるそれは大部分において一致しない。それは人の性格や能力は非常に多岐にわたる要因の集合体であることによる。
 相手の全てを共感することは特別な条件でもなければ有り得ず、我々は非常に多くの要因の中から重要度の高い要因における一致度、あるいは全体的な一致度を基に判断している。それは思考によるものではなく一瞬の直感により選ばれる。もちろん直感は何度も修正されながら構成されるので、常に一目ぼれした人を好きと思い続ける訳ではない。

 さて、最初に私は能力が高くて性格が良い人は理想的だと書いた。しかし、そういう相手と自分がストレスを受けずに付き合いきれるかと問われれば、真面目に考えるとなかなかに難しいのかもしれない。なぜなら、コンプレックスや自分との差を常に感じ続ける状態というのは、本来必ずしも自分にとって心地よいものではないからである。追いかける上ではよい存在でも、ずっと付き合う上では必ずしもそうでもないかもしれない。恋愛小説では王子様が自分をさらって行ってくれることを夢想するが、現実の自分が王子さまから声をかけられて本当に城に入ろうと思うだろうか。
 それでも理想の上司というものが評価されるのは何故か。快適さは、自分にとって楽である状況のみではなく、むしろ刺激を受けたいという自己成長的な要因があることは誰もが知っている。とすれば、理想の上司は自分自身がなりたい姿であり目標である。そこから刺激を受けることで自らの立ち位置を近付けようとする対象だ。
 その姿になった自分を夢想することには一定の快楽が伴うかもしれないが、現実の自分とのギャップを考える時には相応の不快さを感じることもあろう。あくまで夢として捉えている範囲において快適なのだ。このあたり最後は本人の認識の在り方次第ではあるが、ストレスを生み出すのはその状態を肯定的に捉えられるかどうかにかかっている。直感が大きく支配するからこそ、時に誤認が快適性を生み出してしまうこともある。

 ところでもう少し考えてみると、そもそも性格が良いとか能力が高いという評価そのものがその内部に別の意味を併せ持っていることに気づく。例えば能力が高いというのも、単純に事務処理能力が高いとかクリエイティビティが秀でているというだけとは限らない。判断の適切性も含めてではあるが、企業に所属する場合は組織としての調整能力が問われることも多い。
 それはすなわち、自らの能力や性格の異なる人に対する接し方の問題である。能力や知識の異なる人にも分かる言葉、分かる形で示すことができる。同様に、性格が良いというのも必要に応じて相手に合わせることができる、例えば固定された共感性ではなく適宜変動して共感性を呼び起こす能力。こう考えてみた時、能力と性格の一致点が見出せるような気もする。
 人によってはこうした力を姑息という人もいるかもしれない。だが、他人に合わせて時に厳しく時に優しく振る舞うのは組織を動かす時には当然必要となることである。それを押し付けがましく行うのではなく、自然かつスマートに行う力。それらは間違いなく求められている。

 私が示したこの力は、能力でもあり性格でもある。組織における能力は、局部的な成果を生み出すものではなく全体的な成果を生み出すための力。それ故に、時と場合そして相手に応じて変幻自在に対処できる。そんなコミュニケーションスキルと呼んでも良いだろう。それが本来持って生まれたものであれば性格と呼ばれ、努力の上に獲得したものなら能力と呼ばれる。そのような近くにいる存在に快適さ(時に安寧、時に成長)を与え得る能力。
 もっとも議論がループに入ってしまいかねないが、人とのコミュニケーションスキルがいくら高かろうが、それのみでは必ず社会的な評価を受ける訳ではないのも事実。業務処理能力や創造性が掛ける時には、単なる八方美人との誹りを受けることもあるだろう。要するに、あくまで社会を円滑に動かすための一つの力に過ぎないが、それでも個人の力で全てが決まらない状況下においては馬鹿にできない力ではないかと思う。

 私たちは能力が高いというと、知識の豊富さや弁舌の巧みさ、あるいは処理スピードの速さや想像力の高さなど様々な概念を思い浮かべることができる。それは確かに個々においては非常に優れた能力と言えるだろう。だが、現代社会において何らかの成果を上げようとする時、芸術や芸能の世界でもなければ個人のみの能力では十分な結果は望みづらい。また、全ての面で優れている人などまず見かけることはできない。それは天才と呼ばれるごく少数に冠せられる称号である。
 一方で日々の暮らしにおいては、能力の高さよりは人を落ち着かせる力の方が求められることも多い。人は刺激と安定の間を揺れ動きながらバランスを図ってる存在である。性格の良いと言われる人が好まれやすいのは、その安定した快適性を提供できるからだと思う。頭の良さや行動力よりは性格の良い方が良いと言われるケースがあるのも、社会におけるバランスを求める欲求が大きいからでもあろう。
 ただし、受動的な存在としてのそれは必ずしも社会的には肯定的に受け入れられるとは限らない。一般的には良い子と評価されても、いじめの対象となるのはまさに受動的な性格の良い子供が多かったりするものである。攻撃と防御の依存関係はあくまで歪なものである。すなわち能動的な能力であることが求められる。

 ありとあらゆる能力が高くなくとも、一つの分野において優れた能力を有しているとすれば、そこに周囲に対する共感を引き出す能力(この言葉が適切かどうかはもう少し考える必要ありだが)を重ねることで、多くの人はその価値を認めやすくなる。
 普段から、自分は能力が高いのに評価されないと感じる人はいるだろうが、おそらくそれは相手に共感される(あるいはさせる)能力が不足している。共感できない存在は多くの人に対してストレスになりやすい。逆に一定の受忍限度はあるものの、与えるストレスがポジティブに評価されれば問題となるどころか、それすらが誘因子になりうる。同じように話をしても、ある人は肯定されある人は否定される。
 共感は、刺激と安定の使い分けにより導かれる。それを上手く認識して使い分けられる能力が、人との関係性を良い方向に転がすための大きなポイントとなるのではないだろうか。